昔の Children には なぁんか、「ばね」があったなぁー

古ーいネガを見つけた・・・

撮影時期は厳密には特定できないが

戦前
戦後の昭和30年頃45年頃 そして昭和の終わり頃 

大きく4つに分けられるが、ただし、掲載は年代順ではない


これらの写真の頃、特に戦前は、今ほどは子供にだけ目を向けていられる状況には無かったと思われる

しかし、かまう時間が少なかったゆえに、写真には凝縮された、子に対する想いが出ている


写真はどこかへ出かけたときとか、何かの行事に撮るものであった

だが、幸いなことに、ここにはそれ以外の日常も記録されている



傷み激しい乾板からのは 「銀塩写真 傷みのクリニック」

補修を試みているが、
ここでは修復前の状態で掲載した


話題騒然
 木内百貨店 屋上 お子様遊戯場   NEW チルドレン & アニマル

戯数座標・ぎすうざひょう・銀塩写真館・黒川芳南・gisuzahyo   


昔の Children には なぁんか、「ばね」があったなぁー



ワタクシAgXがはじめて自分のカメラで撮った一枚目の写真です

「スタートカメラ」というそのまんまの名前でした




で、人数分 焼き増ししてもらい、みんなに配ったことはいうまでも有りません。

ま、密着では有りましたがね (^o^)丿 でも、その密着には白い縁がついていました

当時のDP屋さんの「まめ」さと 子供たちの目の良さには 驚きますねー

なんたって、密着となりゃ、今のプリクラ2枚分くらいの大きさ。

その中央部分に、なんと8人も写っているんですからね~


自慢げに配った写真の実際の大きさ



着物を着ている子も普通にいる昭和10年(1935年)ごろ


昭和10年ごろは水玉が流行だったのか・・・




写真を撮るときは光を背にし・・・っていうのが基本だった。

撮られる方は光に顔を向け眩しさに耐えねばならなかった。

背後には強い影が有るものが多い昔の写真、三角形の影はモダンだねー
小川友岐子
1960年代初頭か

小川久さん提供 ありがとう





米俵は「日本昔話」の長者さんの屋敷に積まれていたけど

ここは米屋さんなので、長者ではないけど積んである

女学生のセーラー服って、いつ頃からのことなんだろーね

1920年代かもう10年位前かも



「片岡千恵蔵」と「栃錦」のファンだったあきおクン

理科が得意だったカズヒコ・素直で賢かった、まさ吉ちゃん

背もたれ付きのハイカラな三輪車そして、何にでも興味を持ったAgX

みんな子供だった1950年代半ばごろ

みんなに会ってみたいな~
黒川芳南



男女間、この、微妙な距離は維持しなければ、翌日から

「悪がき連」からは仲間外れにされた・・・

1955年(昭和30年)の模範的ないい子の写真。

短く刈り上げた男の子の前頭葉のふくらみに賢さが、

三馬
ゴムの短靴(短けり)とデニムのオーバーオールの

すそから見えるももひきにアクティブさを感ずるのは

私だけではない、はず。



三馬(みつうま)ゴムのゴム靴は「つや消し」で、弘進ゴムのは

「つや有り」だった。子供たちは、その、ひかひかする靴で新品を

買ってもらった喜びを倍増させたかったが、親たちはゴムが光るのは

混ぜ物をしていて丈夫じゃないということで、多くは「三馬」を買い与えた。

始めから中古のような「つや消し」で喜びは半減したがそれでも嬉しかった。

なんと言っても「弘進ゴム」はマークが漢字で「弘進」だったのに

「三馬ゴム」のは文字通り「馬の顔が三つ並んだ絵」がマークだった。
黒川芳南 


「激動の70年」の言葉が使われ出したのは

1969年(昭和44年)のことだった。


その年の10月21日夜、ワタクシ『AgX』は

上の写真とほぼ、いや全く同じ服装で、新宿駅東口でシャシンを撮っていた。

10.21(じゅってんにぃいち)新宿反戦闘争の日であった。

この日、新宿駅は全面閉鎖、枕木の下に敷かれた石はアスファルトで覆われ

投石に利用されるのを封じていた。熱くて長い時が過ぎ疲れ果てた体で

小田急線の「参宮橋」から電車に乗ったのは、全線、新宿に隣接する駅までも

閉鎖されていたからだった。そこから二駅目の「代々木上原」で降り

アパートで徹夜で現像したのは、前日tri-x 100フィートの

長尺一缶をパトローネに詰め替えた20本だった。

1970年(昭和45年)秋の写真。○○大、テニスコートで。

Photo by ユーコちゃん?


モデル並みの?被写体は
ワタクシ 『AgX』
黒川

渋谷区代々木上原 みどり荘 界隈



この細い道は、手前側で突き当たる袋小路であった。

そこに有った「みどり荘 一号室」で学生時代を過ごした。

「激動の70年」
とは言われていたが、

周りは大きなお屋敷で

いつも静かに柔らかい影を道に落としていた。

毎日、小田急に乗って新宿へ出たのだが、

「よぉーし」と気合を入れなければ

この居心地のいい路地から表通りにはもちろん、

新宿なんかにゃ行けなかったな~


逆に帰りは花屋の角を曲がりこの路地に入ると、

もう家に着いたって感じがしたもんだった

だからって、路上生活者だったってことじゃない


上原銀座と井の頭通りと交わるところには、作曲家の 遠藤 実さんの豪邸があり

中学出たばかりみたいな歌手志望の若者が必ず

2,3人は、門前の車寄せのところで待っていた。


で、われわれ学生4人ぐらいで、「どれ、歌ってごらん」などと言って

聞いてあげたが、下手でへたで、
「クニに帰って家業を継いだほうがいいなー」って。

そしたら、「あの時、あなたに言われてクニに帰ってよかった。」と手紙が来た。

冷や汗もんでしたねー (-_-;)

その後卒業後も数年、年賀状が届きました。

小学生の頃読んだ「ふたりのロッテ」

中学生の頃 「ポリアンナ」という題名で映画化された。

ヘーリーミルズ
はかわいかったな~



で、時は経ち、1968年 TVでも放映された。


その当時にしても、TVの画面の角が丸過ぎるが、高度成長の真っ盛り、

「古くなったものは捨てる」が普通で、リサイクルは学生?がそれを拾って、

たたいて、直して利用するという方法で行われていた、みたい。

で、お金持ちの大家さんの助言?で、抵抗は有ったが拾って来て

時々たたいて使っていた。

なまじの古さが気にはかかったが、学生時代は充分事足りた。


・・・・・・・・・・

「浜辺の詩」っていう写真集のモデルになってもらった

男鹿のけいこちゃん1975年頃

セピアに調色したのではないらしいが 見事なセピアだ、台紙まで・・・
小川かず子(左から2人目)

 



バックは牛小屋だと聞いた 牛の顔もあればよかったなー
小川友岐子 小川久



全てを開け放ち 涼しそう

古いアルバムの中で、だんとつ写りがよかった。

カメラの種類は、覚えていないという事だったのが残念


高い天井、縁の下 全てを開け放てた昔の家は今より涼しかった

これも、同じカメラで撮ったと思われる


土門拳さんの写真みたい。昭和30年代半ばころと思われるが
一般人が撮るのは、「正しい姿勢」が多い中、珍しいねー



夏休み、親戚の家に行ったとき って感じの写真だねー

これも写りがいいねー で、再度カメラの事を訊いてみたら

 壊れたので、橋の上から川へ捨てたと言う

当時は、不要になったものは、川へ捨てるのが普通だったらしい
小川友岐子(右)


1989年の。
我が家では、これはもう昔の写真に分類されています。

「でんしゃにのってみたぁ~い」と言うので秋田←→男鹿 40km足らずの
とんぼ返りの小旅行・1989年の夏のことでした
黒川梨里子 6才


20世紀も残り20年を切った頃。前方は明るい
黒川俊輔 1才 出戸浜海水浴場で


斜めのスキャンもかまわずの親バカ写真

AgXが気に入っている写真なので・・ つい


黒川梨里子 6才 黒川俊輔 9才



ん?何の店だって!!

旧秋田駅の三番ホームから一番ホームを見ると

角度によってはこんな怪奇現象が起き評判になった

だからといって、写真まで撮る、ひま人は皆無に近かった
黒川友岐子 

叔母の子供の頃だからもう完全に戦前、

もしかしたら、第一次世界大戦前?



それとは別に、京都では「さきの大戦」といえば

「応仁の乱」
のことを指すってホントですか?

「サザエさん」のワカメちゃんのような

髪型とエプロンのさだちゃん




「飛島の叔父さん」の子供の頃(右)

飛島で魚を獲って暮らしている割には、色白でハイカラだと思っていた。

住まいが山形県の飛島ではなく、仙台に住んでいたのを知ったのは

おじさんが亡くなったときの葉書でだった。「飛島」は苗字だった。

1933年(昭和8年)夏 撮影と古いネガの袋に青インキで書いてある

国際連盟脱退
年表上のことの様な気がしていた「年」が現存したんだなぁ・・



1933年(昭和8年)夏

山羊とほとんど同じ立ち位置だ

この原因としては残っていた乾板のカメラが

観光地の望遠鏡のように地面に固定式だったとも考えられる

なーんてなこと、ある訳ないよね (^o^)丿

「写真機は、家一件分もしたもんだ」ということを聞いた覚えがある

もしかしたら、カメラを買ったら小さな家ならおまけに

付いてきたのではなかったろうか
・・・

う~ん 国際連盟脱退の年でもあるし あり得るなー

ピンぼけな上に、左隅にわずかに見える文字からすると

裏焼きならぬ裏スキャン で右のように直しました  →

裏焼きは直り、ピントも少しだけだが改善

でも、撮影時の後ピンは、どうにもならないなー





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