秋田市広小路 木内(きのうち)百貨店
昭和30年代、そして40年代は特別に意味を持っていた
1961年(昭和36年) 秋田国体があった年の広告
大人たちは盆、暮れのお遣い物は木内の包装紙でないとためらいが有った
子供たちにとっても「ハレ」の場でもあり親が同行する場合は
やさしいお姉さんがいる三階のおもちゃ売り場
木内の食堂のスタンド付きのソフトクリーム
そして、屋上お子様遊戯場がフルコースだった
子供同士で行く場合は、秋田で最初だというエスカレーターで遊んだ
始めは丁寧に頭を下げ「お足元に お気をつけになって・・・」と言っていたが
段々目に血管が浮かぶのが見え始め、しまいには男子社員が来た
「ぼくたち、ここは遊び場じゃないからね、屋上で遊ぼうね」と
笑顔のままで、ものすごい力でひねりあげながら、優しく連れて行かれた。
子供たちは、その人を怪力プロレスラー「豊登」 と呼んで恐れていた。
屋上のお子様遊戯場は、楽しそうな音楽が流れ
カラフルな遊具で、もう夢の世界だった
いつの間にか消失した、ピンク色と薄水色がまざったような、
美しい輝きを放つロケット形ネオン塔。
昭和30年代、闇に浮かぶネオン塔は、高度成長期のシンボルだった。
このネオンのことが、商店PR誌「秋田百店」に以下のように記されている。
木内デパートのネオンは五階建ての白色美と良く調和して設計、デザインされていた。
このネオン塔は総工費1,000万円で地上55メートルの高空に立てられているため、
デザイナーは美観と堅牢さをかねた足場という点を考慮して
風速七十メートルの強風にも耐えうる塔の上に、ロケット型のもの。
昭和三十年ころ、公務員の初任給が10,000円ほどの時代、
工費1000万円という金額に当時の木内百貨店の繁栄ぶりをうかがわせる。
「木内」は広小路のシンボルだった 秋田駅方向を望む。木内の隣の建物や生い茂る木がある場所は裁判所だった。 でも最近は、この、おばさんの持つ、木内の買い物袋も、見なくなったなー・・・・・ |
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木内(きのうち)デパートはハレの場でもあったので 可愛いサンダルを履いたりし、おしゃれをして行ったものだった |
こども電車は嬉しかったけど少し恥ずかしかった・・ |
木内(きのうち)デパートの屋上は子供たちの天国だった |
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それは夢の世界を覗くジオラマだった |
男の子の胸のポケットのサングラスもおしゃれだが |
木内の屋上の観覧車に乗ると屋上から道路の方に |
むかし、広小路は対面通行だった |
本金(ほんきん)デパートの屋上遊園地の珍しい写真 |
木内でも本金でもデパートは「ハレ」の場だったし
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本金デパート屋上 |
写真中央が遠藤修さん |
木内デパートを検索中にこのHPを発見しました。 |
『オバQのお面を被ってるのが私です。 左の木内の写真は黒い(白黒だからあたりまえか。。)シャツを着て 「木内ボーイ」さん |
木内の屋上のロケットのようなタワーと 観覧車も見える |
広小路から千秋公園に向かって左側の堀は貸しボートも有った |
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広小路から見た平野美術館 |
木内のとなり(現在のキャッスルホテルのところ)の裁判所は |
解体がほぼ終わった裁判所 |
裁判所跡地には第一ホテルが建った |
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2002-7 千秋公園の堀の向こうから広小路を見ると 輝いて見えた木内百貨店はもう目を凝らさなければ見えない |
2002-7 木内の向こうには30階のマンションが工事中 |
2002-11 マンションの工事は大分進んだ |
2003-1 マンションの全貌が見えた |
秋田市出身。東北大経卒。常務を経て、1968年社長に就任した。 木内は木内商店として1889年創業。1959年に株式会社に改組した。 |
戯数座標・ぎすうざひょう写真館・黒川芳南・gisuzahyo