秋田魁新報社刊 『秋田国体 栄光の記録』



秋田国体は1955年(昭和30年)の決定時から

財政赤字を理由に開催を疑問視する声も多く 中央の多くの新聞社は反対の特集記事が

掲載されるような状況下 一時は、決定取り消しにもなりながらの開催であった。


事実 財政は厳しく日本の三大貧乏県のひとつに数えられていたが

財政再建の努力の中の「明るいシンボル
 という知事の英断だった。

当時 国体開催には 13億円位かかるというのが 全国どこでも一般的な施設が有っての試算結果だった。

ところが秋田県は 一般的な試算結果を出せるような 設備や施設が無いにもかかわらず

知事はそれを 一億円で全てを賄う様に指示を出した。


学校や企業の体育館利用し 宿泊施設は新設せず、地元の人たちの家に民泊という事になった。

その家の人たちは わずかな補助はもらったがそれに倍する手厚いもてなしをし

試合では 地元の選手より民泊している選手を応援し 体協からクレームが付いたという。



終了後 この国体を 「まごころ国体」とか「民泊国体」言われ

各 中央紙が高く評価している記事のスクラップが 

地元紙の作ったこのグラフの最後を飾っている。

国体にキャッチフレーズをつけた最初でもあった。




秋田県は天皇杯2位の好成績だった。

しかし皇后杯は3位にも入らず、記録にも残っていない。

天皇杯・皇后杯共に東京都・・・開催以来ほとんどがそうであった。


第16回秋田国体(1961年)を最後に高度成長を背景にし

県の一年分の予算をはるかに上回る華麗な国体へと変身してゆく。


これまでは天皇杯は東京都と相場が決まっていたが、

ジプシー選手による開催県優勝がパターン化もしてゆく。

1963年までなんとか続いた東京都の天皇杯1位は

40年後の2013年東京大会まで、

天皇杯・皇后杯1位は取れなかった。

その後はまた開催県が取得するのだろうか・・・ジプシー選手によって・・・。

開催権に有利な判定があったり・・・。

ちなみに、秋田で二度目となった2007年秋田わか杉国体は、

その例に漏れず天皇杯・皇后杯共に1位だった。


やっぱり地元の選手の試合は、「勝ち」の旗が軽くもなるよね。

そんな中、2002年、高知県の橋本大二郎知事の英断によって

「開催都道府県の勝利至上主義 」や「ジプシー選手の排除」や「審判の公正化」をうたい文句にし開催。


結果、天皇杯・皇后杯とも東京都なり

開催県の高知県は、10位に終わったが、爽やかな後味を残した。


ワタクシAgXが思うに、もう、国体の役目は終わったのではないかと思う。

全国一巡した段階で、廃止するチャンスだったのではないかと思う。



関連性の有無は不明だとは言うが
、何故か、国体開催2-3年後には

例外なく中学が荒れ、諸問題が発生するということが各県で起きるのだが

教育委員会等は気づいているのだろうか・・・・。


これを考える時、体育大とか体育での推薦入学とかの人は

中学・高校とかで担任を持つような教師ではなく

コーチや監督として身分を保証してあげ、各クラブ活動の躍進に努めたらどうかなーと思う。


進学校で、体育教師が担任になると、特に高校3年生においては

親は、目の前が真っ暗になるって話を聞いた事が有る。


そりゃあそうでしょ、勉強なんかしたことなくて

大会で良い成績を上げたからって、そこそこの大学に入って、教師になられちゃたまんないよね。

「受験」とかしたこと無いどころか、そのシスティムさえ知らないんだもの。

想像だけど、そういう人って、部室とグランドまたは稽古場しか知らず

大学の教室なんて知らないと思うよ、ん。


その上、ジプシーなぁーんてな人間が、教師が勤まるわけが無い。

「開催都道府県の勝利至上主義 」の用員でしょ。

「結果を出さなくちゃ」と思えば思うほど、隷属を強いる体育会系独特の指導方法の上、暴力でしょ。

加えて、セクハラや使途不明金なんってなのは、どのスポーツにも有るんだってことを知るべきだと思う。

そのうえ、国会議員になったりして・・・・。

 



開会式の行われた、秋田市八橋陸上競技場 (開会式当日)



ワタクシAgXも 開会式のマスゲームで 『どじょっこ ふなっこ』を演じた。

どこにいるか、わからないどころか、なぜか練習の都度 組むメンバーが変わるという混乱状況であったが

当日は何とか無事終わった。当然、見たことも無いメンバーと組んだのはいうまでも無いが・・・。



外で行われたバレーボール

国体レベルの大会を外で行うのが

普通だったとは考えにくいでしょうが

青年団のハイキングでのバレーボールは 当然のことのように

外で行っていたので 見る側に違和感は皆無だった。 




それまで「おかず」といえば、塩辛いものが定番だったが

各婦人会単位で勉強した 

バランスのとれた食事は大好評だった。



「らいしかれ」
 が 「カレーライス」と呼ぶ方が

共通語だということも知ったし スプーンで食べる方が

日本の標準らしいとも知った



その後、帰郷した選手たちとは

家族同士の付き合いをしている人も多いと聞く



   

女子80メートル ハードル

 3年後に開かれた 『東京オリンピック』で、スタート前にスターとライン近くで逆立ちし、

 心を集中するので、評判になったし、 80メートルハードルでファイナリストになった
 
 依田郁子選手(東京)
などの戦い振りも記録されている
 
 11秒3の日本タイ記録だった。



 オリンピック後、少ししてから、依田選手は みずから命を絶った。

 また、マラソンの銅メダリスト、円谷選手も同様に自ら命を絶っている。
  
 『鬼の大松監督』がひきいて、金メダルを取った 女子バレーの選手の中にも、

 数年後自ら命を絶った
 人もいる。

 

 

 東京という 「都市が開催」したのではあったが、「敗戦後の復興を世界にアピール」の意味も有ったし、

 それ故、国を挙げてのオリンピックが与えたプレッシャーは、現在、考える以上のものだったに違いない。
 
 
 活躍した姿をTVで観た、ワタクシAgXとしては、 スポーツって何なんだろうと疑問を持ちつつも
 
 心からご冥福を祈らずにはいられない。

 合掌


  

 青年 五千メートル 決勝

 ゼッケン47 秋田の伊藤勝悦選手が14分49秒2で優勝

 「ゼッケン41 福島の円谷選手は3年後の

 東京オリンピック・マラソンで銅メダルを獲得することになるが 

 この競技で入賞したかどうかの記録は「秋田国体 栄光の記録」には載っていない

 このほか 東京オリンピックで活躍することになる

 体操の小野選手夫妻遠藤選手などの秋田県の選手は大活躍。

 「体操王国 秋田」名は強烈に印象付けられた。

東京オリンピックはすぐ目の前 

高度成長前夜 ともいえる時期だった。



ちなみに

ワタクシAgXもこの国体の2年後(1963)同じ会場を使用した、

中学の大会で100mを走ったが、グランドの整備状況は、

決していいとは言えなかったし、国体を行った1961年も同様だったのを

マスゲームに出た、私は、はっきり覚えている。

そしてこうも思った。

周りが田んぼで、表面の砂が吹き飛んでぱーんとなった

保戸野小学校のグランドより荒れているなーと。

どちらがいいグランドなのかは分からないけど・・・。


少ない予算で行わざるを得なかった結果だったが

国体参加の選手たちは、立派な成績を残し、東京オリンピックの

すばらしい会場で、世界の名選手たちに互して好成績を残した。






そんな状況下、ワタクシAgX(ゼッケン2)もこの大会では1位だったが、

翌年(1964)の「オリンピックに出ないか」などと言う人は

誰もいなかったのは不思議・・でもないかぁ (。・_・。)ノ

 

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