昭和拾六年(1941年)五月二十三日 川口部落七拾六戸焼失


六月一日 興亜奉公日ノ眞景



あるところで古い写真をみる機会があった。 大火直後のものだった。

この苦しみの中 揚げた国旗に 

「建前としてのハレの日」


見えてくる


戯数座標・ぎすうざひょう・銀塩写真館・黒川芳南・gisuzahyo

昭和16年(1941年)5月23日 午前3時10分頃 秋田県本荘町川口(現・由利本荘市川口)で

蒸気機関車の火の粉が原因で大火が起きた。

折からの強風にあおられて、

写真上方の線路の方から、芋川までの部落は90戸中、76戸が焼失した。


関連新聞記事

また、昭和15年(1940年)は、紀元2600年にあたり、記念事業として現在地に飛鳥神社を建立することになった。

昭和16年5月、見事な神社が完成し、宮大工の小川啓三郎棟梁より

川口部落への引渡しが終わり、棟梁宅で祝い酒を飲んでいるとき、この火災は発生した。

火事触れを聞いた棟梁は、新築なったばかりの神社へ駆けつけて

神殿より厨子を背負い出しているうちに、棟梁自身の家は跡形もなく焼失した。

精魂込めた仕事が竣工と同時に焼失してゆく様をみる見る棟梁の気持ちを思うと胸が締め付けられる。

火災発生から数時間後、

強風のため、燃え尽きた灰も全て吹き飛ばされ焼け跡はきれいなものだったそうだ。


火災からほぼ一週間後の1941年(昭和16年)6月1日の写真(部分)

大火からほぼ一週間後の1941年(昭和16年)6月1日は

毎月一日に行われる興亜奉公日」に当たっていて規則どおり日の丸を掲揚している。

しかし、ほとんど焼き尽くされたというのになぜ、そのようなことができたのだろう。


調べていくうちにこのような記事を見つけた。



何がなんでも、国旗を掲揚しなければならない、「興亜奉公日」

食べるもの、着るものより、とにかく「国旗を」と隣りの北内越村國防婦人會から

贈られたものだった。上の記事はその後、旗竿と、旗玉を贈った際のもの。



火災からほぼ一週間後の1941年(昭和16年)6月1日の写真(部分)

住まいや身の回りのものを全て焼失し農家の人たちは、何をさておいても

「のま小屋」(ぬま小屋という説もあり)という通常なら農機具を入れる小屋を再建した。

土に丸太を組み わらで屋根を葺いたものであり
そこを仮の住まいともした。

床はわらで編んだ「むしろ」を土に直に敷いたものであったし

板を敷けたのは いい方としなければならなかった


そのような状況下 写真が撮影された

撮影者は 本荘町の若松寫眞館

大火の後、部落の各戸に立派な台紙に貼りこの写真を配布し、

この衝撃的な出来事を、後世の教訓とした


各、家々では、台紙の裏に思いおもいの気持ちを込めて
 写真の説明を書き込んだという


1939年(昭和14年)に始まった「興亜奉公日」(こうあほうこうび)
子供たちは全校朝礼があり、君が代吹奏と日の丸掲揚、東方遥拝に続いて分列行進を行なった

また小学校には無かった軍事教練の学科も加わり『教育勅語』の他に『軍人勅諭』の

暗記もに苦労したという話も聞く。各家々は国旗を掲揚する決まりだった


この大火からほぼ半年後、日本は12月8日の真珠湾攻撃をし太平洋戦争に突入する

大火の有った半年後の昭和16年(1941年)12月8日開戦し

その翌年1月からは毎月8日を大詔奉戴日 (たいしょうほうさいび)とし

「興亜奉公日」を切り替えて、対米英宣戦の詔が発せられたのを記念した

その日には大詔が新聞にも必ず載り、その奉読、記念行事が各地で行われた  

昭和17年(1942)1月8日第1回大詔奉戴日開始(毎月1日の興亜奉公日廃止)


米国・英国への宣戦布告と宣戦の大詔を報道する新聞

昭和16年12月9日 朝日新聞 夕刊


この火災の数日前に食べたバナナが最後のバナナでその味が忘れられないという話も聞いた

バナナはワタクシAgXが小学6年だった昭和30年代半ば(1960年頃)まで、高いものの代名詞だった

そうすると、20年以上もバナナは遠足とかの特別行事の時のみ食べれるものだったことになる


この頃まで(1960年頃)輸入されていた高かった台湾バナナは

台湾でのコレラ発生で全面輸入禁止となった

その後輸入されるようになったフィリピンバナナは大きく皮もきれいで、安くもなったが

あの頃食べた台湾バナナの、心ときめく香りや味とは程遠いものでもあった

そんな意味でもこの火災の前に食べた「バナナ」が最後のバナナであったろう



さて、火災で全てを消失したのは地域全員で、みな同じ立場ということで

そんなに悲壮感は無く、明るく復興に立ち上がったという

 

戦争終結の大詔を報道する新聞

昭和20年8月15日 朝日新聞





秋田県本荘市川口 芋川(いもがわ)橋
この橋から不要になったいろいろな物を川に捨てるのが、通常のことだったらしい
1941-6-1


火災からほぼ一週間後の1941年(昭和16年)6月1日の芋川橋
石脇側から川口方向を
望む

1955


川口(写真左側)、石脇間は昔は 渡し舟で往来した。

明治11年(1878年)、双方合同で芋川橋を着工した。

工事費四百二十円を償却するため、人は五厘、車馬は各一銭の渡り賃を徴収した。

その後三度も流出したが、これは昭和30年(1955年)頃の木橋。


2001-8-17

秋田県本荘市川口は長年の悲願でもあった芋川河川改修工事のため

道路拡幅・芋川橋架け替え工事等でその姿を大きく変えようとしている


2002-6-30

交通量の割には立派な芋川橋は完成していたが 手前の赤い橋は何に使うのだろう


サッカーワールドカップ決勝戦まであと10時間の秋田県本荘市川口

しかし 開催地以外はTVの中のことであり 通常通りの生活が営まれていた

だが 隣接する由利郡西目町にある高校はサッカーが盛んなので

同じ10時間前のこの時 盛り上がっていたのかもしれない



芋川橋 2003年6月1日


『昭和拾六年(1941年)五月二十三日 川口部落七拾六戸焼失
六月一日 興亜奉公日ノ眞景

影後62年たった今、河川改修工事は引き続き行われているが、橋は完成し古い橋は撤去され

もう何十年もこの橋が使われていたように周りの景色に同化している


このページの最初に戻る

銀塩寫眞館 写真帖へ戻る