Photo by E。蔵布団
『こちらに来て2度目の冬が、やってきました。
肝心のものが雲で隠れてますが・・・
白くなった大雪山です。 』
北海道にお住まいの、E。蔵布団さんが 「銀塩寫眞館 談話室」 に書き込んでくれて、その際、添付してくれた写真です。
その雄大さ、トーンの豊富さ、雲に隠れた部分にまた想像力がかきたてられます。
あまりの素晴らしさに、 E。蔵布団さんに無理を言って
銀塩寫眞館のトップページに使わせていただきました。
「銀塩寫眞館』史上、初の試みでもありました。
何度見ても飽きの来ない、想像力がかきたてられるような写真を、ワタクシAgXも撮れたらな~ と、常日頃思っています。
何度見ても いい写真だなー 癒されるなー ・・・・・・
そしたら ある日、E。蔵布団さんが、旭川市から「戯数座標」にいらしてくれました。
こちらをごらんください。
瑞祥新年
遅ればせながら 年賀のご挨拶を申し上げます。
ワタクシAgXが、毎年不思議に思うのは、E-Mailのアドレスを知っているのに、年賀状をくれる方の気持ちです。
個人的には、ご丁寧にメールアドレスまで書いた年賀状を頂いても、嬉しくとも何とも無いだけでなく、
ワタクシAgXのアドレスを知っているのにと、不思議に思います。
「民間で出来ることは民間で」 大賛成です。ワタクシAgXは、年賀状には、新年の風物詩 なぁんてな事を感じたことが有りません。
賀詞はメールでいいじゃないでしょうかね。それに、お子さんの写真入りの年賀状は、親戚や仲人(←この方だって興味ないかも・・)以外
全く興味が無いって事を知るべきだと思うんですが、毎年来ます。困ったもんです (ーー;)
最近は、印刷屋さんに年賀状を、頼む人は少なく、ほとんどが自分で印刷していると思うんです。
2種類作り、親戚用と、その他用にすればいいと思うんですが・・・
メルアドを知らない方には、しょうがないので数十通にもなりますが、年賀状を出しては いますが・・・
そのうち、なくなるとおもいますが・・・ 全てメールで済ませるように早くなって欲しいもんです。
今回は、少し辛口のコメントだったかなー、でも、効いて欲しいな~、来年こそは。
An
Old-house
この街の、城跡のすぐ裏手にある古い建物。いつかじっくり撮ろうと思っていたが
いつの間にか、外装をレンガ柄の外壁材に代えられていた。
その後、あまり時間も経たないうちに、解体された。
撮りたいと思ったとき、撮っておかないからだ、と反省したがもう取り返しはつかない・・・・
雨の夕暮れ、車中から、走りながら撮ったのが、最初で最後の一枚となった。
1957年(昭和32年)、この古い家の前の道路が拡幅されたが、向かい側に道路が広げられたので
この古い家は残った。子供の頃から何度も見た家ではあったが、その頃から、古く、何か惹かれるものを感じていた。
この写真は、TOPページへの掲載時間が短かったため(一週間の掲載)、
『もう一度じっくり見たかった』 というメールを全国各地から沢山いただき、特に「団塊の世代」
の方からのも多く
ご希望に沿い、「銀塩寫眞館」TOPページに、再掲載しました。こういうことは、「銀塩寫眞館」では、初めてでした。
意外だったのは、「団塊の世代」 の方々なので、下の方の昔の写真に 興味を待ってのことかと
思っていましたが
むしろ上の、最近撮った カラーの方に興味を持っていらっしゃる方が多いという点でした。
「写真」 は全て過去のことではあるが、新しい視点や感覚に興味を持ってくれた方が多かったことを
嬉しく思っています。 (^_^)v
AgX
秋のほうずき
夏に実を付ける、と広辞苑にも書いてあったのだが、紅葉をバックにほうづきが。
つい、珍しくて一枚撮った。
残雪と鎖
この街にある図書館の、駐車場の入り口にあるチェーンだが、何もこんなに太くなくてもいいんじゃないの?
紅葉が終わる前に振った雪は、緑の丈夫そうなポールと太い鎖が冷たさを保ち、雪を溶かせずにいた初冬。
はつ雪はわた飴のごと夢のごと 除せたるゆえに残る雪もあるらむ
AgX
Shadow of Mama-Chari
ショッピングモールに止められていた 自転車の影がとってもきれいに出ていたので、Planar T※ 50mm
f1.4で。
資生堂のショウウインドウ
近くの資生堂のショウウインドウは、いつ見ても心地良かった。
更 生
更生タイヤの工場だが、「更生」 が必要なのは、タイヤより 看板じゃあないの?
でも、中央の曲がった 杭が何とも言われないし、左の配電室もいい味出しているなー
雨と赤いシャツ
雨の中 赤いシャツの青年は裸足で歩いていた。
蒼過ぎる秋の空
空の蒼さに惹かれて・・・・ 秋とはいえ、こんなに蒼いとは。
少年A
銀色に美しく光るビルの壁には目もくれず、正面見詰めて、強気でどんどん歩く少年Aは何処に行くのだろうか。
そして、「少年A」でなくなったときには何処にいるのだろか。
シグナルはGOだが・・・
歩行者用信号は、「進め」を示していたが、前にも後ろにも誰もいない山王大通りの昼下がり
Shinjuku ’70S
『激動の70年代』 と言われ始めたのは1968年頃からだったと記憶している。
そして、その68年に上京し学生ってもんを始め、かなりの数の写真を撮った。
が、『those
days』 にも記した様にほとんど全て、といえるほどネガを失ってしまった。
「夜間撮影」と称して新宿をブラブラしながら写真を撮ったりしていた。
増感現像っていうのを覚えたのもこの頃だった。
話せば長いストーリィのある、Tokioとの出会い。
半年後、Tokioは亡くなった。享年 25歳。
いつか、Tokioに関するストーリィを書くことがあるかも知れないが
今は、この一枚で 勘弁してもらう・・・・・
Shinjuku ’70S
Tokio 青森県出身 24歳
この屋台の青年は、青森県出身で写真は撮らないしカメラも持っていなかったが、写真仲間だった。
私より6歳くらい年上だったが、私を「アニキ」と呼び、私は「tokio」と呼び捨て、
新宿の屋台という屋台は大抵彼が紹介してくれた。家出同然で出てきた彼らは、家に送るから、って家族の話をしながら
撮ってもらう事をせびったし、好んだ。結局は送りゃあしないのに・・・。
一年の夏休み、帰省中に屋台の仲間から電話があった。「tokioが死んだ。来れないかい」と。
私はその時、心臓病で残りの半年を休学せざるを得ないことを、届け出した直後だったが、tokioの写真を持って夜行で上京した。
ヤクザの抗争で「一旗挙げる(彼の口癖)」つもりで鉄砲玉として対立する組へ行ったが、捕まり惨殺された。
私が撮ってあげた写真の全てが遺留品にあり、青森からは親族は来ず仲間のアパートで、形ばかりの葬儀をした。
UPしてあるこの写真が彼の唯一のカラー写真で「カラーだぜ」と仲間を羨ましがらせたものでもあった。
それこそ夜間撮影の実習で撮ったものだった。
たった一枚のキャビネで、私自身にこんなにも影響与えた「tokio」はまがいもなく、写真仲間だったと言える。
ま、私の場合は、特異な例かもしれないが、皆 熱かったという点では、
あの時代、あの年頃 共通の心だったような気がしてならない。
Benches
ショッピングモールのそばにある、川端のお年寄りがのんびり出来そうなベンチ。
少年も何十年かのち、このベンチに座ることがあるだろうか。
銀塩寫眞館 Top Page
Photo 4 ---------
END