ダンプカーはいつ頃から有ったんだろう
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砂利を敷いて、ロードローラーで固めて道路工事完成 だった。
国道以外で舗装され始めたのは、
1961年(昭和36年)秋田国体のときだった
このときから、道路が車だけのものになり始めた。
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中学生は「足駄」小学生は「下駄」が多かったので
このような道では石が挟まったりしたし、走る時は
くるぶしを蹴ってしまったりした。
だから、くるぶしとひざ小僧はかさぶたがある子が
元気の証でもあった 。
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上の道路工事のは時代が違うがお寺の真ん中に道路を通した
こんな砂利を敷いただけのでこぼこだったが
町内のおもだった人たちは正装し開通を祝った。
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町内の母さんたちは少し綺麗めのエプロンをしめ遠巻きに祝った
右の角の家は桶屋さんで、毎年秋には「たが」に使う竹で
畳二枚ほどの大きさの たこを作って揚げ
左の街燈が付いている電柱に紐の端を結んでいた。
たこ糸の端は、虹の始まりと同じように空につながる場所の様な気がし
それは夢のような所ではあったが、5~6件手前が小学校の学区の境で
他校の子が見張りまでしていたので虹と同様、
近づくことは出来なかった。
後年、中学で一緒になった「見張り」にそのことを話したら、
こちらの学区にある 自転車屋に同じ思いをして見ていたと言ったので、
帰りに町内の自転車屋に 寄ってそこで遅くまで遊んだ。
が、その秋揚がった「たこ」には やはり小学高学年の「見張り」がいたが
中学生になっていた ボクはもう興味が持てなかった。
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上の道路の開通式のと同じネガに有った旧秋田空港の写真
芝生の様子から1961年(昭和36年)の開港直後と思われる
しかし、ハーフ判のカメラなので72枚も撮れたので道路の開通が
同じ年とは限らない むかしは何か大きなイベントが無ければ
写真は撮らないものだった。
だから、正月~入学式~海水浴~お祭り~ 正月~・・・・
が一本のネガに有ったりもした。
後日知った「潜像退行」の問題はモノクロだったし 、
仮にそれがあったにしてもDPに出した店が
「腕が悪い」といわれる位でそんなに問題ではなかった。
それ故、DP屋さんの職人技は凄かったと、今思う
ハイジャックなどそんな言葉も無かったろうし、
こんな風にすぐ側までも行けた
パイロットは飛行機が落ちない様に、という注意と
着陸したらしたで人を轢かないようにと、気ぃ遣っただろーな~
パイロット免許と大型二種免許必要だっらかも ね (^o^)丿
右側 遠くに海底石油掘削船 白竜号が見える
日本海のすぐ側にあった旧秋田空港は、滑走路正面に
大森山、右側は海で横風が有り、日本三大難港といわれた。
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何をしているのか分からない
むかしは想像も つかないことがあったり
起きたりした という
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運動会は、親が夢中になってこそのもの
子供そっちのけでも、子供の心にはしっかり焼き付けられていた。
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