銀塩寫眞館 気になるBOOkS


Chapter-One

Through the CAPA'S  EYE
The-1st-SC
1913年 アンドレ・フリードマン誕生から1936年 ゲルダ・タロー、ロバート・キャパとの恋 まで

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( Since 2001/10/21 )

2015/1/12改訂開始


Last updated 2015年6月14日 日曜日 6:34 am

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《 戦争写真家 》 と、言われる ローバート・キャパの写真集や関連書物を何冊か読んでいると、

戦争そのものを撮ったのは、むしろ少なく、その大多数は「人」を撮っているのが分かる。

「人」を通しての時代表現者であり、時代の目撃者とも言える。

なので、本ページは、「キャパの眼を通して」ということで

「 Through the CAPA'S EYE 」とタイトルします。


ま、同列に置くのはおこがましいが・・・

不肖、ワタクシAgXも、「ひと」や「人の存在を感じる」 そんなシーンに遭遇し、

私自身それに伴う「心の揺れ」を感じたときレリーズします。


タイトルは、「気になるBooks」ではありますが、それらに掲載されている写真から

キャパの心の揺れ」 に主眼を置いて見つめたPhotographs を、年代順に並べてみました。


キャパ関連写真等



戦争写真家、ロバート・キャパは、7ヵ国語を話した。

しかし、どれ一つとして満足に話せるものは無かったが、

彼と接する人間、皆に愛された・・・。




年代順

【 1914年 秋頃か? キャパ1歳 】
CAPA一歳頃

エンドレ・エルネー・フリードマン(キャパの本名 ※1)は、1913年10月22日、ブダペストのペスト側で生まれた。

誕生に際して、3つの珍しい現象が見られたという。

母親の胎内から出てくるとき、頭は羊膜に包まれていたこと、

その羊膜を取り除くと、生後数ヶ月の子のように黒い髪がふさふさしていたこと、

片方の手には小さな指が一本多く付いていたこと、

だが、これらのことは、母親や彼女の友人たちは

この子が将来大きくなったら、有名な人間になると受け取っていて

実際、そうなった。


※1:ハンガリー語では、日本と同じように、姓、名の順に書き表すので

フリードマン・エルネー・エンドレと標記するが

フランス語の読み、アンドレ・エルネー・フリードマンが一般化している。

このコーナーでは、混乱を避けるため一貫して「キャパ」と標記することにします。

名前の変遷については、後述します。


【 1917年(キャパ4歳)頃 】

キャパの家族

キャパが生まれた、ペスト側は洒落たホテルのほとんどと最高級の商店と劇場の全てが集まり

洗練され国際色豊かな活気にあふれた都市だった。

そこで、父デジェー、母ユリアンナ(ユリア)の次男として、溺愛されて育った。

左端キャパ 一人おいて 母ユリアと抱っこされている 5才下の弟・コーネル 父デジュー 右端 2才上の兄ラースロー





【 1931年10月27日ドイツ政治高等専門学校の学生証  1931年、キャパ17歳 】

学生証キャパ17歳


5月、左翼運動に加担したということで逮捕されたが、ハンガリーを出るという条件で釈放され、

同年10月、ベルリンに着き、ジャーナリズムを学ぶため、ドイツ政治高等専門学校に学生登録をした。


当時のドイツでは、最先端を行くカメラ技術の進歩とともに、写真家がジャーナリズムに組み込まれ

フォト・ジャーナリズムの方法論が確立されていく。

が、だからと言って

キャパがこの頃から写真家を目指したという訳ではない。

むしろ、
政治学を学びPenに拠るジャーナリストを目指したが、言葉の壁がネックとなる


そこで、キャパは言葉が出来ない人間にとって、ジャーナリストに一番近い職業は「写真家」だと気付く

【 Dr. Erich Salomon (1886-1944) 】
 
ちなみに、フォトジャーナリストのパイオニアとして活躍したのは、エーリッヒ・ザロモンで、

被写体がカメラを意識しない写真、後に
「キャンディット・フォト」と呼ばれ、

目立たぬようするためにマグネシウムを焚かないだけでなく、燕尾服で撮影場所に行った。

彼は、法学博士でもあった。


ザロモン

【 エルマノックスカメラ 】
エルマノックス

エルマネン社の

カメラを山高帽に隠して会議場や裁判所に持ち込み、エルノスター85mmF1.8という明るいレンズで

暗い室内でもマグネシウムも焚かずピントは目測式だった。



【 1928年 スイス・イタリア国境の町ルガノにあるホテル・スプレンディドの頂上会議にて 】
1928年 by
顔が見えるのが左からチェンバレン卿、シュトレーゼマン外相。右端後ろ向きがブリアン外相。


【 1920年代か “見つけられた瞬間” と題された写真】
byザロモン
「あんなところにザロモン博士が隠れているぞ!」と フランスの外相アリスティード・ブリアンに指差される。

ちなみに、このブリアンさん、後に5度も首相に就任し「ロカルノ条約」締結の功績から1926年にシュトレーゼマンと共にノーベル平和賞を受賞した。

また、ジュール・ヴェルヌの「15少年漂流記」の『少年大統領ブリアン』は彼の名前からとった。




【 1931年 『 第一次大戦後、初めてベルリンにおもむいたフランス代表 』 Photo エーリッヒ・ザロモン 】
byザロモン

【 1930年のではあるが、同じくザロモンが撮影した写真 『ハーグ』  】
byザロモン

残念というか、悲惨なのは、ザロモンはユダヤ人で、ヒットラーが政権をとるまでは、

ドイツの週刊誌、B.I.Z.(ベルリーナ・インストリール・ツゥアイトゥング)を舞台に活躍するが

後に捕らえられ、アウシュビッツで死亡したことである。



【1932年11月27日 「演説するトロツキー」 キャパの事実上の処女作 19歳

トロツキー

「写真家」になろうとは思ったが、知り合いの知人の写真家オットー・ウムベーアを紹介してもらい、そのつてで

「デフォト」(ドイチャー・フォトディーンスト)という一流の写真通信社に暗室助手として採用され、

現像液や定着液をボトルに補充したり、写真を吊るして乾かしたり、露出や焼きつけという写真の基礎を学んだ。


1932年11月下旬、ソ連の指導者スターリンによって国外追放されたトロツキーが、コペンハーゲンで口演するという

ビッグニュースが「デフォルト」と飛び込んだ。カメラマンが全員取材に出ていたため、キャパにお呼びが掛かった。

キャパは、暗室助手だけではなく、カメラマンのアシスタントとしてライカでベルリンの日常を撮るときのフィルム交換もしていた。

ライカの画期的なところは、小型で高速レンズ(明るいレンズ)で、フォーカルプレーンシャッターで1/1000秒という露出時間を実現し、

ほの暗い照明下でも 躍動感溢れる写真が撮れるようになったことだった。「デフォルト」ではいち早くこれを採用していた。

ベタ

トロッキーは写真を撮られるのが嫌いだったので、全世界から来ていた大きなボックスカメラやフラッシュを持ったカメラマンたちは、

誰も会場へは入れなかったが、ポケットに小さなライカだけを入れたキャパはカメラマンとは気が付かれず難なく入れた。

この日ライカを持って来たのはキャパだけではなかったが、
彼の写真が他の誰よりもドラマチックだった

何より大きかったのは、被写体と1メートルあまりの距離まで近づいたことであり、技術的には完璧とは言えないが

後に
彼のトレードマークとなる、親しみやすさと情熱が早くも現れていた

そして何より嬉しかったのは、ベルリンに戻ると

『デア・ヴェルト・シュピーゲル』 誌 がそれらの写真で1ページ全体をレイアウトしていた。

さらに、有頂天にさせたのは
『撮影 フリードマン(キャパの本名) :::デフォルト』 という小さな文字だった。

CAPAで全面

レーニンの死後、主流派のスターリンと対立し、国外追放となり

トルコ・フランス・ノルウェーなどを転々として

1940年8月20日亡命先のメキシコで暗殺された・・・ 。




1933年春 ベルリン脱出、そしてパリへ  キャパ19歳


2月、ヒットラーが政権を掌握する前にウイーンに逃れ、

そして9月、後にキャパの撮ったものを全て現像、引き伸ばしを行なう、

友人
チーキ・ヴェイスとパリへ逃れた。


しかし、ベルリン時代同様暮らしは苦しかった。

単発の細かな仕事をやったり、唯一の商売道具のカメラを質に入れ、

月のうち3週間は質屋に残りの一週間は手元にカメラが有るような状態だった。

飢えのため、セーヌ川で釣りをしたのもこの頃のことだった。もちろん釣れはしなかった。

間もなく、写真家
デイヴィット・シーモア(シム)、アンリ・カルティエ=ブレッソンらと親交を結ぶ。


この頃の、キャパの写真や彼が撮ったものは、現在見つかっていない。







1934年 パリ ゲルタとの出会い  キャパ20歳


「デフォルト」の上司ジモン・グッドマンに紹介された撮影をきっかけに

ドイツ系ユダヤ人亡命者ゲルタ・ポホリレ
Gerta Pohorylle  ゲルダ・タローGerda Taroの本名)と出会う。

ゲルタはキャパのマネージャーとなり、キャパはゲルタへカメラの使い方を教授する。


【 1934年 パリで ゲルダ24歳 】
ゲルタ

ヴュ(Vu) 《第二次世界大戦前にフランスの Illustres français 社が刊行していたグラフ誌》に

インタヴヴューと写真  本誌特派員 ゴルタとフリードマン(キャパの本名)」とクレジットが一行載っている。


豊富な石炭産出と工業化が進んでいた「ザール」地方は実質、第一次世界大戦戦勝国の

フランス統治下になったが、ザール市民はフランスに付くかドイツに帰属するかの選択が迫られていた。



【 ザール地方で働く 炭鉱夫 】
ザール

Vu(ヴュ) 11月21日号 「ザール住民は語る・・・・誰に投票するか」より

この記事は特別ダイナミックなレイアウトがされタイトルの中に稲妻のような図柄が組み入れられ

キャパのフランスでのデビューは鮮やかなものではあった・・遅きに失した感も有る・・・

フランス国民は注目してはいたが、ドイツ語圏でも有りヒットラーのファシズムが確実に忍び寄り

ドイツ語圏である上、ナチスの力が働き、投票結果は「ドイツに帰属する」、というものであった。







1935年 パリ キャパ21歳

【 1935年 秋 パリで過ごす 二人 】

ゲルダ&キャパ
なんかこういうシーンって、映画 『ゴット・ファザー』 に見たような感じがするね。

ま、時代背景が一緒なので、髪型やファッションが似ているんだろうけどね。



この年も、前年同様の活躍はしたとは思われるが、写真は、少ないなぁー  (-_-)ウーム

【 1935年 パリにて 】
1935年パリで

ただ、キャパにとっては別れと出会いがあった年でもある。

1月に兄、ラースローが心臓疾患で死亡。

出会いは、夏、南仏・カンヌで留学中の川添浩史や井上清一と知り合う。


【川添・井上両氏】

川添・井上両氏

また、彼らを通じ、大阪毎日新聞パリ支局で毎月発行されている刊行物の写真編集者として

月に2日午後だけで、月給20ドルという破格の待遇の仕事を紹介される。

ご存知のように、川添浩史と井上清一のふたりは、1979年、キャパの著書 『ちょっとピンボケ』の日本語訳者であり、

キャパは戦後、写真雑誌『カメラ毎日』を創刊する際の販促イベントとして、毎日新聞の招きで来日するのは、こうした縁があった。


( 「大阪毎日新聞」 は、戦時中 「東京日日新聞」 と合併し『 毎日新聞 』 となった。)


ま、いずれにせよ、「ヴュ」や「大阪毎日新聞」の稿料が入った時、新しいスーツを買った。

写真家が新しいカメラより、スーツを買ったということは、

ブダペスト時代の体験から「立派に見せかける」ことの重要さや

ゲルダのアドバイスにも因ったに違いない。現に、カメラ(ライカ)は日本人留学生川添や井上から

借金して買ったし、それを質に入れ、大阪毎日新聞からライカを借りて撮影した。


1929年10月24日は「暗黒の木曜日」(Black Thursday)、

米国に端を発した世界大恐慌は米国の経済政策のミスが原因とされるが、

当然フランスにも影響し、第一次世界大戦の勝利国とは言え戦争で疲弊した経済は深刻な状態で、

如何にキャパがフランスで写真家として鮮烈なデヴューを果たしたとは言え

外国人が継続的な仕事に付くことは難しく、フランス人を優先的に雇用するというのは甘受せざるを得なかった。

なので、単発的な細かな仕事をして生計を立てていた時期でもあった。



【1935年 教会の祝日 セビーリャにて】



白ブロックライン1行のみ


【 1936年(CAPA 22歳) ゲルタとの恋、そしてCAPAの名

この年と翌37年はパリとマドリードを何度も往復して写真を撮った年でもありCAPAの名が確立された頃でもあった


キャパの名前とゲルタ

【 1936年 タイプライターを打つ ゲルダ・タロー 】
タイプライターを打つゲルダ-1936-パリ

キャパの名前

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キャパは、前述の通り、1913年10月22日、ブダペストのペスト側で生まれ、エンドレと名付けられたが、

家族や友人は、ハンガリー風の愛称であるバンディと呼び、自身もそう名乗っていた。

1933年、パリに逃れてからは、アンドレと名乗るようになった、アンドレ・エルネー・フリードマンこれがキャパと

名乗るまでの彼の名だった。



【ゲルダ・タロー 20歳の頃のと言われている写真・・・だとしたら1930年の、となる】

ゲルダ20歳の頃?

1910年、ゲルダはシュトゥットガルトのユダヤ系ポーランド人の中流家庭に生まれた。その後スイスの寄宿学校に通った。

だから、1930年頃と思われるし、もちろん名前はゲルタ・ポホリレ(Gerta Pohorylle)だったが、

ここでは、混乱を避けるため、ゲルダ・タローとして掲載していきます(ロバート・キャパも同様です)。

1929年、ナチスの台頭に先立ち、一家はライプツィヒに引っ越した。彼女はナチスに反対して左翼組織に参加し、

1933年には弟たちが反ナチスのビラを撒いた事で逮捕拘留された。

ゲルダは釈放されたものの、結局一家はドイツを去ることを強いられた。

彼女はその後二度と家族に会うことはなかったという。


この写真は、ライピツィヒに引っ越した頃ので、写真で身を立てるなどは考えたことも無かっただろうが

彼女を取り巻く環境や時代が後に撮った写真に色濃く反映されている。


1934年、ナチスの反ユダヤ主義から逃れ、ゲルダは第三共和制の頃のフランスのパリへ引っ越した。

1935年、彼女はハンガリー出身で同じくユダヤ系の写真家、アンドレ・フリードマンに出会い、彼の個人的な助手となり撮影技術を学んだ。

彼女は、Alliance Photo社で写真編集者として働き始めた。彼らは恋に落ち、公私にわたるパートナーとなる。

1936年、彼女は初めて報道写真家の資格を得た。そこで彼女とフリードマンは計画を練った。


彼らはニュース写真を撮影したが、

それは架空の裕福な出身のアメリカ人写真家ロバート・キャパ(名前はフランク・キャプラにちなんだとされる)の作品として売られた。

これは、当時のヨーロッパで強まっていた政治的狭量を乗り越えるには便利で、アメリカ市場で良い収入を得るにはふさわしい名前であったためである。

この画策の秘匿は長くは続かなかったが、アンドレは自分の名前として「ロバート・キャパ」を使い続けた。

ゲルダは、仕事用の名前として、アンドレと親交のあった岡本太郎にちなんで、ゲルダ・タローを名乗った。

彼らは、1930年代のフランス人民戦線政権成立の出来事を共に取材した

つまり・・・
秘書 



って事で、この辺で

『ゲルダ・タロー コレクション』

【1936年 ゲルダ パリにて by CAPA 】   【1936年 ゲルダ ポートレイト パリにて】
1936年ゲルダ、パリにて ゲルダ-ポートレイト
 【 1936年 ゲルダ Smiled-Paris 】   【 1936年 ゲルダ Winked-Paris 】
微笑むゲルダ
【 1936年 ゲルダ in パリ 】
1936年パリのゲルダ
【 1936年 ゲルダ Sleeping  Paris 】
ゲルダ熟睡中

ゲルダの写真は、発見し次第UPしていきます v(*'-^*)ゞ・'゚☆

ご覧の方で、ここに無い、ゲルダの写真をお持ちの方

ご協力願えると嬉しいですね。


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キャパはフランス国内の人民戦線を取材していて、

総選挙は人民戦線の勝利に終わったが、

新内閣が発足できず労働者の怒りが蔓延し、

1936年5月26日からストが始まった。

ストライキの指導者たちは、記者やカメラマンをも閉鎖した工場内に入れなかったが

何故か、キャパとシーモア(シム)は入れて、写真まで撮っている。


【1936年5月28日 パリ郊外に有るルノー工場のストライキ】
パリのストライキ



1936年イタリア軍がエチオピアに侵攻し、首都アジスアベバを陥落させ、皇帝ハイレ・セラシアはイギリスに亡命し

スイス・ジュネーブに有る国際連盟に訴えようとした時、イタリア人記者から野次や怒号が飛んだ。



【 野次を飛ばしたイタリア人記者と間違われて逮捕されたスペイン人ジャーナリスト  1936年6月30日 スイス・ ジュネーブ 国際連盟 】

誤認逮捕

総会そのものの写真より、キャパが捕らえたこの一枚が世界の人々の心をつかんだ。




ジュネーブからパリに戻ったCAPAは、その後パリとマドリードを何度も往復しながら写真を撮っていた。



【1936年 マドリードの子供たち】
マドリードの子供たち


【 1936年 パリの子供たち 】
パリの子達


【 1936年 熊使いの大道芸  マドリードにて】
大道芸


【 1936年 パリ 路地裏の子供たち 】

1396-パリの路地裏


【 1936年 フランス・ヴェルダンの激戦 20周年 平和への祈り 】
平和への祈り
第一次世界大戦の激戦地、フランス共和国 ヴェルダンの夜の共同墓地では、花を添えられた無数の白い十字架が照らし出され

生き延びた兵士たちが暗闇と沈黙の中、戦闘に関わった人々への、厳かな平和への祈りが捧げられた。


ヴェルダンの戦いは、

サラエヴォ事件を端緒として起こった第一次世界大戦の西部戦線下、

フランス共和国内のを舞台に繰り広げられたドイツ軍とフランス軍の戦いで、

第一次世界大戦における主要な戦いの一つで、1916年2月21日に始まり、同年12月16日まで行なわれ、

勝った仏軍36万2000人、敗れた独軍33万6000人の死傷者を出したこの戦いは、

フランスの退役軍人の大半や兵士たちは将校たちの「愚かさ」に腹を立てていた。

この戦いは、フランス国民の血を無駄に流した無益な戦いだった。



【 端緒となった、オーストリア皇太子暗殺(サラエヴォ事件)場面を描いた新聞挿絵   1914年7月12日付 】 

サラエヴォ事件


【1916年2月~12月 ヴェルダン要塞の戦い】
ヴェルダンの戦い

 

ヴェルダンでは厳かな平和への祈りが捧げられた・・・・・・が、

しかし、

平和への祈りも空しく、隣国 スペインでは、内戦が勃発した。

続く

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