1936年7月~1939年3月まで メキシコ内戦・崩れ落ちる兵士の謎・ゲルダ・タローの死
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2015/1/12改訂開始
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2015年4月14日 火曜日 3:33 pm
現在、改訂作業中です。 しかし、遅々として中々進みません・・・(-_-)ウーム
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ヴェルダンでは厳かな平和への祈りが捧げられた・・・・・・が、
しかし、
平和への祈りも空しく、隣国 スペインでは、内戦が勃発した。
【 キャパとゲルダのスペイン内戦 】 キャパ、ゲルダともにユダヤ人の故に、ナチスドイツからパリへ亡命し、 |
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スペイン内戦とは・・・ スペイン内戦(スペインないせん、Guerra Civil Española、1936年7月 - 1939年3月)は、 |
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【 1936年 スペイン内戦の主な戦場 】
【 1936年8月 スペイン バルセロナのアラゴン戦線へ向かう共和国軍兵士 】
キャパとゲルダは、バルセロナの中央駅で、
フランコ叛乱軍と戦うためにアラゴン戦線へ向かう数千人もの共和国軍兵士の
感動的な場面を撮っている。
兵士たちは、新天地に向かうような喜々とした表情で、妻や子供そして家族に別れを告げている。
日本の第二時世界大戦時の家族との別れとは異なる、明るささえあるなぁー (-_-)ウム-
列車には、白いペンキで『 ここに誓うぞ! 独裁者にひれ伏すぐらいだったら死んだ方がましだ』と書かれ
共和国軍の敬礼を意味する握りこぶしを高く上げるポーズをとって出征して行った。
キャパの名作として伝えられているこの、この一枚は、もっとも心を動かされて写した場面だと後に語ったという。
列車に書かれている、スローガンは、ラ・パショナリア(La Pasionaria、受難者または情熱の花)の別称で知られていた、
スペインの政治家ドローレス・イバルリ・ゴメス(Dolores Ibárruri Gómez1895年12月9日~1989年11月12日)の、
「跪いて生きるくらいなら、立って死んだ方がましだ」(Más vale morir de pie que vivir de rodillas)と語ったことに基いている。
【 ドローレス 】
また、彼女は1936年10月6日に始まったフランコ叛乱軍の最大の戦略目標のマドリードの戦闘の、
あの有名な合言葉「ノー・パサラン ( 奴らを通すな )!」を叫んだ人でもある。
【 1936年 マドリード 】
【1936年8月 バルセロナ 訓練する女性兵士たち Photo by Gerda-Taro 】
【1936年8月 バルセロナ 方膝をつき銃を構える共和国軍の女性民兵 Photo by Gerda-Taro 】
ワタクシAgXは、ヒールの高い靴を履いているところに、何か心を締め付けられる感覚に似たものを感じた・・・。
ゲルダはもう彼女の天賦の感性で立派なカメラマンになっていた。これも名作と言われている一枚。
下の写真だけで決め付けるわけには行かないだろうが・・・
【 1936年8月 兵士の休暇 at バルセロナ 】
ゲルダとキャパ 同じシーンを撮ってはいるが、微妙にずれている。
ワタクシAgX的には、ゲルダの方の表情に「休暇の安らぎ・開放感」が出ていると思うんだけど・・・
ホント、長生きして撮り続けたらどんなに素晴らしい写真を残せたのだろうか、と思うとき、「はぁ~」 と、ため息も出ちゃうよね。
「戦争って?」という質問に、「未来を奪いあうことです」と答えた子がいるって、ある教師に聞いた。
っていう訳で、前出以外の
Photo by Gerda・Taroを並べてみましょう。
【1936年 イヴェリア 少年 Photo by Gerda】
【 1937年5月 喇叭手 ヴァレンシアにて by Gerda・Taro 】
【1937年 Photo by Gerda・Taro 】
【 1937年6月 共和国軍兵士 by Gerda 】
【 1937年6月 セゴヴィア前線 by Gerda・Taro 】
【 1937年 戦艦ジャイムの甲板上で楽器を奏でる海兵隊員 at アルメニア by Gerda 】
【1937年 Photo by Gerda・Taro 】
【 1937年2月マラガからの難民 at アルメニア Photo by Gerda-Taro 】
【 1936年9月4日 崩れ落ちる兵士と倒れる兵士 by GERDA 】
この写真の撮影日が、撮影者が、「崩れ落ちる兵士」の写真との関連が出てくる。
【1937年5月 空爆の犠牲者 バレンシアの遺体安置所 by Gerda 】
【1937年? ゲルダ・タロー 撮影 】
【 1937年2月マラガからの難民の子供 at アルメニア Photo by Gerda-Taro 】
【 1936年9月5日 崩れ落ちる兵士 】 の謎
1936年9月5日 セロ・ムリアーノでフェデリコ・ボレル・ガルシア青年(24歳)が撃たれた瞬間をロバート・キャパが撮ったとされる写真。
この写真によって、ロバート・キャパは、第二次世界大戦・ベトナム戦争までのカメラマンがうらやむ、最高の戦争写真家と考えられている。
この写真が「謎」とされて語られているいる点 | |
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1936年9月5日に撮影されたのか。 | |
セロ・ムリアーノの丘で撮られたのか。 | |
写っている人は、フェデリコ・ボレル・ガルシア (24歳)なのか。 | |
撃たれた瞬間を撮った写真なのか。 |
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撮影者は、ロバート・キャパ(本名:アンドレ・エルネー・フリードマン)なのか。 |
キャパの生前、そして死後、「なぞ」は語られていた。
この後を、この点に興味を持ちながらご覧になるのも一興かとも思います。
また、この点に関しては、下のロゴをクリックして
「キャパの十字架」 「ロバートキャパの謎」そして「血とシャンパン」をお読みになると
謎が解けていくようなに気もなれます (-_-)ウーム
当然、本の内容が全て記載されているわけではありませんけどね。
この写真が最初に掲載されたのは「ヴュ」(ヴュ(Vu) 《第二次世界大戦前にフランスの Illustres français 社が刊行していたグラフ誌》)の1936年9月23日号だった。
【 Vu
1936年9月23日号 】
左ページの、上の写真と下の写真に人物をを同一視する論もあるが、
当時のカメラの性能、例えばフィルムの巻上げはノブを廻して行なう方式のバルナック型であったろうし、連写装置も有るにはあったが
あの頃、まだ4”×5”(しのご)の大型カメラを使用しているカメラマンもいた中で、小型軽量で機敏に動ける35mm判のライカに
あえて重い連写装置を装着するのは本末転倒って感じも否め無いので、その装着は無かったと考えるのが普通でしょっ。
なので、同一のカメラでこの短時間に2枚は無理と思われる。
右下のは、キャパが撮ったセロ・ムリアーノからの避難民。
【 ふたりの服装や人相の違い 】
【 その2 上の右側のはゲルダが撮ったことがはっきりしているという・・・Negaがあるのだろう】
【 Vuに掲載された二枚の写真は異なる人物だとわかる写真 ”凱歌を上げる兵士たち” by ゲルダ 】
「崩れ落ちる兵士」とされる人物は左端、Vuの下の写真の人物は左から3番目にいる。
って、事で、Vuに掲載された二枚の写真は、ふたりの異なる人物と決定ぇ・・・この辺はあまり問題にはなってはいないみたい。
【 こんな写真が有る 】
この二人は、年恰好からしても違う人物だと思える。
家族は戦死を 「額に銃弾を受け即死で、両手を挙げて倒れた」と連絡を受けている。
もう一度、【 崩れ落ちる兵士 】の倒れる時の写真を見て欲しい。
戦死時の状況とは異なる倒れ方をしている。
マドリードのサマランカ公文書館で、1936年9月5日にセロ・ムリアーノの戦いで戦死したのは一人であり、
フェデリコ・ボレロ・ガルシアと断定できたのは、スペイン内戦に従軍した「崩れ落ちる兵士」と同郷のマリオ・プロントスという人が
キャパの写真を見、その装備から、自分とは違う「アルコイ出身の市民兵」であるとし
戦死したただ一人の兵士というのは、フェデリコ・ボレロ・ガルシアなので、彼だと断定したという。
つまり、彼は「崩れ落ちる兵士」の顔見知りじゃないだけではなく、
「装備」と「戦死したのは一人だけ」で、それが、フェデリコ・ボレロ・ガルシアと判断した。
確かに、あの戦線で彼は戦死していたのだが、あの「崩れ落ちる兵士」とは
断定できない要素が出てきましたなぁ・・・。
その上、近年、キャパが遺した密着プリントアルバムには
「セロ・ムリアーノからの難民」の撮影前に撮られた
【 崩れ落ちる兵士 】と
一緒に撮られた一連の密着プリント有ることがが発見された。
これは何を意味するのでしょう。
【 1936年9月5日 アシリアの森での決起集会に参加するゲルダ(矢印) Photo by CAPA 】
この写真の持つ意味は重要かも・・・
この「アシリアの森」の正式名称は、ラ・フィンカ・デ・ビジャ・アシリカ、つまりアシリア村に有る別荘または農場って事で
コルドバ奪還への前線基地になったセロ・ムリアーノの村の中の私有地。
【 決戦を前に決起集会で演説する エンリコ・バノー・ニコメデスCNT書記官 (CNAとは、全国労働者国民連合) Photo by Robert・Capa 】
この2枚のアリシアの森の写真は、キャパが生涯で写した7万点を超えると言われる中でも、秀逸な作品と言われている。
しかしゲルダは、集まった若い兵士たちの表情に、絶望と混沌を見る。
そして、この決起集会は市民兵にとって、自らの命がどこへ行くのかを知る集会でもあった・・・。
【1936年9月5日 悲嘆にくれる共和国軍の少年兵 Photo by Gerda・Taro 】
この日示された作戦は、共和国軍は機関銃と迫撃砲で叛乱側のモロッコ軍を撃破するといものであった。
しかし・・・共和国軍の市民兵は知っていた。
いかに、CNT書記官がのニコメデスが叫んでも、強固なモロッコ軍は共和国軍へ猛烈な攻撃をかけて
全滅させてしまうだろう。その結果、ここアリシアの森ももう攻撃をかけられ、市民兵は捕虜にされてしまうに違いない、と。
【 ニコメデス書記官の話を聞く少年兵 Photo by Gerda・Taro 】
彼らは心の中で、この日の夕方までには自分を含め仲間たちのほとんどが死ぬのを知っていた。
ゲルダはこの二枚で、少年兵や市民兵の心に寄り添いながら、混迷の表情を慈愛と共感の眼差しでとらえていた。
そして、決起集会の後、キャパとゲルダは、セロ・ムリアーノの前線へ向かった。
避難民と逆行してふたりが向かう姿が偶然、避難民を撮っていたハンス・ムナートのカメラに収められ、
フランスの新聞「 ル・マタン」の第一面に掲載されている。
【1936年9月22日付 ル・マタン 】
【同・拡大写真 セロ・ムリアーノからの避難民 Photo by Hans・Munart 撮影日:1936年9月5日 】
【 1936年9月5日セロ・ムリアーノからの避難民 Photo by Hans・Munart 】
【1936年9月5日 キャパが撮った避難民 】
この時間帯は、セロ・ムリアーノの戦闘が激しい時で、村の郊外に向かう避難民を撮影できる場所にいたことや
9月5日の12時30分から行なわれたアリシアの森の決起大会にふたりでいたことなどからして
セロ・ムリアーノにはいたのだが、戦闘地域に向かっているとい事は、戦闘がが行なわれていた時間帯にはその現場にはいなかったとも言える。
【1936年9月5日午後3時半再開された モロッコ軍の攻撃を受ける ゲルダ・タロー by Robert・Capa 】
午後3時半再開された モロッコ軍の攻撃は昼前より激しさを増していた。
場所は共和国軍が防塁として敵を応戦していたコルドバ銅精錬所。
キャパとゲルダはこの砦でモロッコ軍の攻撃の激しさを肌で知ることになる。
【 同上 】
この時、ローライフレックスを首からさげていたが、身を守るので精一杯だったのか、ゲルダ撮影の写真は無い。
上の二枚は、キャパがゲルダから1.5メートル離れたレンガ造りの囲いの中から撮ったこれらだけである。
「崩れ落ちる兵士」の写真は撮影後、約2週間でフランスのグラフ誌「ヴュ」に掲載されたのは前述の通り。
さらに、翌10月には「タイム」に、翌年には「ル・ガ-ル 」さらに世界最大発行部数を誇るアメリカの「ライフ」に掲載され
世界中に衝撃を与え、スペイン内戦がどれほど悲劇的なものである事を知らしめることになった。
【 ライフ 1937年7月12日号 】
【1936年11月23日 創刊号 】
創刊号の表紙は女流カメラマン、マーガレット・バーク=ホワイトの撮影したフォートペックダム(ミズーリ川流域)の写真であった。
【 ライフ創刊当時のアメリカ 】
LIFE誌のフォトジャーナリズムという文章記事よりも写真を中心に
報道・言論を構成しようという考え方はすでにヨーロッパ(特にドイツ)で試みられていた。
ライフ誌はカメラマンをスタッフという専属的な所属とし、
撮影から記事・レイアウト等の編集のスタイルを一貫させ 「フォト・エッセイ」と称した。
この「LIFE」に掲載されることで、戦争写真家ロバート・キャパの名は燦然と輝き、ジャーナリストの憧れの的となり、不動のものともなった。
しかし、LIFE1937-11-23に掲載された写真が、また「なぞ」を増やすことになる。
それは、こういう点だ。
キャパのカメラはライカで、ネガサイズは24mm×36mmのいわゆるライカ判、
ゲルダはローライフレックスで、そのネガサイズは60mm×60mmのブローニーフィルムの六六判。
と、私は思っていたし、もしかしたら、他の方々もそうであったとも思う。
しかし、
ゲルダは、レフレックス・コレレを使用していたとする驚くべき見解が
ドイツのゲルダ・タロー研究者のイルマ・シャベール氏が2013年刊行した「フォトリポーター ---- ゲルダ・タロー」で
発表されて、びっくり。
このレフレックス・コレレは、スペイン戦争勃発の前年の1935年、ドイツのドレスデンにあったコッホマン社の製作で
ブローニーフィルムを使う6×6cm(正確には僅かに縦長で6cm×6.21cm)で、
現行のハッセルブラッドのように一眼レフでフォーカルプレーンシャッターだった。
ゲルダが撮った現存する密着写真の右端に一様に残されている光量不足から来る縦線の濃淡は
開発当初のコレレの欠陥だった横走りのフォーカルプレーンシャッターの走行ムラが原因で
つまり、シャッターの後行膜が左の格納部への遅れが原因だった。
広いときで2mm狭くても0.2mmとばらつきが有るが、これがレフレックス・コレレを使っていた証ともなる。
ローライフレックスなら、レンズシャッターなのでおきない現象である。
しかし、当時ブローニーフィルムを使うカメラは、フィルムの裏紙に書かれているコマ数を表す数字を
カメラの後ろに有る感光防止のための赤い小さな窓を見て合わせる必要があったし
一枚撮る毎にシャッターをチャージする必要があったが、
このコレレは、フィルムを入れる際にスタート位置までフィルムを巻く必要はあったが
あとは、撮った後、巻き上げると次のコマ位置で止まり、同時にシャッターもチャージされているという
まあ、今では当たり前のことだが、当時は速写性に優れたものであった。
上から覗いてフレーミングするのだが、ゲルダの持っていたⅠ型には蓋を閉め
その上についているスポーツファインダーを起こして、それでもフレーミングは可能だったが
ゲルダの写真は四隅までしっかりした構図だし、
彼女の理知的な性格からしてそれは無かったと思われるって、なんかに書いてあった。
P/S ヤフオクで、1台出品されていましたが、あまり程度が悪いので、諦めました。
でも、結構程度の良いのをお持ちの方のブログはしっかり読ませていただきました。
なんか、面白そうなカメラです。
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お知らせ
あまり集中的にCAPA関連図書を読みすぎたので
ここいらで、少し休ませていただき、
今年は2月もほとんど雪もなく天候も良かったので
雪の無い雪国の「春の始まり」をちょっと撮ってみようかとと思っています。
AgX
2015年4月14日 (火曜日) 3:33 pm
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