もはや、戦後ではない。

昭和三十一年(1956年)この年の7月、経済白書で発表され、

その年の流行語にもなったというこの言葉は、

太平洋戦争敗戦からの復興が終わったという事を意味していた。

そしてこの年、5年後に秋田県での国体開催が決定した。


地方ではまだまだ困窮した生活が続いていた。

現に、小学校の社会科の授業では、

「日本の三大貧乏県は秋田県・岩手県・鹿児島県です」と、

放送禁止用語や差別用語という概念の無かったあの頃、教えてもいたし、試験にも出た。

帳面に書いた「日本の三大貧乏県は秋田・岩手・鹿児島」という語句

に赤鉛筆でアンダーラインを引いたりもした。


後日 「日本の三大貧乏県
を書きなさい」という問題に、

「うちと、となりの2けん」と書いた正次郎(しょうじろー)の答に

先生は涙を拭きながら、半丸を付けた。

そして「+2」とも書いた。

教師は、教え子の家の経済状況も把握していた・・・。


保戸野小学校からの帰り道、諏訪神社のそばに、共同水道の蛇口が有り、

水道が引かれてはいなかった道路から奥まった家々用の上水道としていた

専用の取っ手を持ったそれらの家々の人たちは、

ブリキで出来た一斗缶を二個天秤状に担ぎ、家に
日々使用する水を運んでいた。

子供って、何故か水が好きで、何とかして水を出そうといろんなことをしたが、出なかった。

あきらクンの家には取っ手は有るが一旦家に戻って持って来なきゃならないし、

それを求めれば、彼が困るということも知っていた。

 

4年生の春、音楽の授業で、その年から、たて笛を習うことになった。

クラス全員が買うことになり、申し込み書が西洋紙四分の一に切ったガリ版刷りで、

たて笛は270円で、来月から90円ずつ3回に分けて払うようにと書かれていた。

これも、先生の気遣いで、一回で270円といえば、負担が大きい家も有ることを知ってのことだった。

学校のそばの文房具屋さんから買うのだが、各自買いに行かないようにとも言われた。

後年、そこの同い年の息子から、あの時、先生が藤組の56人分のたて笛の代金を一括で前払いし、

他に言わないでくれと念を押されたそうだ。


そんな経済状況の地方都市秋田で

昭和三十六年(1961年)第16回国民体育体が開催されることが決定していた。

しかし、翌三十二年、岸信介首相のとき閣議決定で、赤字県での国体開催は、

原則これをしない、との発表が有り、中央紙では大々的にこれを取り上げ、

現に、秋田県の翌年開催が決定していた岡山県は取り消しとなったし、

秋田県もほぼそれに近い状況となっていた。

中央紙は大々的に、決定していた秋田県での開催を

中止させるべきだという記事が一面を賑わしていた。

のちに、こういうことは極めて稀なことではあるが、

岡山県での開催の取り消しはくつがえり、

第17回国民体育大会は、無事岡山県で開催された。


しかし、あの頃
、赤字を理由に開催を許可しないとなれば、

何県が開催可能だったのだろうか、と、今思う。


当時 国体開催には一般的な施設が整っていても

13億円位かかるというのが 全国各県の試算結果でもあった。

ところが秋田県は、

一般的な試算結果を出せるような設備や施設が無いにもかかわらず知事はそれを 

一億円で全てを賄う様県職員全員に指示を出した。

と、同時に小畑知事は上京し、

「秋田も中止を」の嵐の中、本県選出の国会議員や関係省庁を回り、

「財政再建の努力の中の『明るいシンボルとして』国体を開催したい」と、説いてまわった。



県職員は
総動員で、民間会社や、学校の体育館、空き地まで

現地視察しリストアップし、使える会場を探しまわった。

また、選手、役員の宿泊先は、ほとんどを民泊とするので協力願いたい旨

新聞で告知され、県職員はもとより村役場の職員もその確保に汗を流した。


かくして、第16回国民体育大会の秋田県での開催は本決まりとなった。

国体のバレーボールの試合を外で・・なんて考えられないでしょうけど

ボクらは、日常見慣れた光景なので抵抗は無かった。

 

昭和三十五年(1960年)ボクたち、

保戸野小学校は5年生の各クラスから、男女それぞれ3人ずつ

開会式の余興のマスゲームへ出ることとなった。

その選出方法は、各クラスに任せられていて、自選他薦と大騒ぎとなっていた。

が、ひとと違った事は最大の失態だと思っている担任の女先生は、迷わず指名した。

6人目の指名に緊張と期待を持っていたが予想通り、スポーツ万能な とも子が呼ばれた。

先に呼ばれた5人は立ち上がっていて、拍手を受けていて晴れがましさに、照れくさそうにしていたが、

とも子は立ち上がらなかった。


「とも子、立でっ」「とも子 なして立だねなやっ」「とっ、もっ、こっぉ」「とっ、もっ、こっぉ」


クラス中、とも子コールで騒然とする中、とも子は、真っ赤な顔をして、

ゆっくり、本当にゆっくり、まるでスローモーションの映画を見るような動きで立ち上がった。

しーんとなり、みんながとも子を見つめる中、とも子は溢れる涙を拭こうともせず、

先生の方へ真っ直ぐ向いて顔を上げ、はっきりとした口調で言った。


「私の家は貧乏で、マスゲームのユニフォームが買えません。だから、出られません」

とも子はゆっくり座り、うつむき、涙をぽとぽと落としていたが、

これでいいんだ、と、言い切った自分を納得させているようだった。

 

日本の三大貧乏県、13億円のを一億円で行うという国体。

開会式のマスゲームに出場する小学生たちの、

白い開襟の運動シャツ、男の子は白い運動パンツ、女の子は紺色の提灯ブルマー

男女とも、白い靴下、白ズック、皆、自己負担だった。

全部で960円だということを書いたチラシが国体開催の気分高揚のポスターのように、

関連チラシと一緒に教室に大分前から貼られていた。

 

町内野球の左のエース、ヨッチャンの兄さんが、秋田商業高校を首席で卒業し、

秋田銀行へ入社した際、首席ということで、普通は9400円の初任給が9650円だっていう事が、

町内の自慢でもあったりした頃の事とである。

 

秋田県中が来年の国体開催に向かって高揚した気分だったし、

その国体に自分の子が出るとなれば、親戚から借金してでも・・・というくらい名誉なことでもあった。



が、とも子を見つめて、しっかりとも子の言葉を受け止めた先生は、肯き、

窓の外を見つめて、少ししてから振り返って優しく言った。

「とも子さん、ごめんなさい・・・・。」

「先生が準備しますから、とも子さん、マスゲームに出て頂戴ね」

 

「とも子ちゃん、ねぇ、出なさいよぉ、先生もああ言ってくれているんだし、ねっ」

きじたかれのとみこは半べそかきながら言った。

先に選ばれていたボクら5人は、ともこの席に行き、とも子の手を引っ張り立ち上がらせた。

とも子も、こくんと うなづき 立ち上がった目には、さっき以上に大粒の涙が溢れ出ていた。

そして、先生を見つめていた。

先生も笑顔らしきものを作りながらも、その目は涙で溢れていた。

クラス中大きな歓声と拍手であふれたが、

この一連の場面が、今でも時々、モノクロ映画のようにリフレインすることがある。

そして、あの頃を思い、目頭が熱くなる。

 

もうそれからは、来年の国体に向け、6人は必死だったし、各クラス合同の練習の時は、

例によって「キィー、そこの輪が丸くないっ!」「キィー、半拍遅いっ」「キ、キィー」「キィーッ」

各校が集まっての、全体練習も皆必死で、ボクはって言えば、

10人の輪を作る時のメンバーが毎回違うことに不思議だなぁって思ったりしながら、炎天下頑張っていた。

 

kokutai


昭和三十六年十月八日日曜日快晴 第16回国民体育大会は、秋田市立八橋陸上競技場で開会式が行われた。


開会式当日の
八橋陸上競技場

小学生たちのマスゲーム「どじょっこ・ふなっこ」などや、

これも自前の、お揃いの「かすりのもんぺ」で何百人もで踊った「秋田音頭」などなど、

どれもこれも心のこもった演出は、

あんなに批判的だった中央紙の紙面の一面トップに写真入りで大きく取り上げられ賞賛された。

そして、スポーツが、一般紙の一面トップに、それも写真入りで載ったのは初めてのことだとも言われた。


どっかにいるはずの、小学生のマスゲーム



民泊し、今でもお付き合いが続いているという方も多い。

地元の選手を応援せずに、民泊した他県の選手を応援し、県や体協からクレームが付いたりもした。



皆、「足りない分は心で」って、


経済白書では『もはや、戦後ではない』って言っているけど、

戦時中のスローガンみたいな想いだった。


第十六回 国民体育大会は、感動を沢山残して無事終わった。

「まごころ国体」とか「民泊国体」とか言われ、

これが後付ではあったが、国体にキャッチコピーが付いた最初となった。


大会後地元紙が作ったグラフ、『秋田国体 栄光の記録』の最後のページを、

あれだけ批判を重ねた全国各紙の賞賛記事のスクラップが誇らしげに飾っている。


そしてこの「栄光」という文字を見るとき、ボクはあの頃を思い、目頭が熱くなる。

秋田国体「栄光の記録」


戦後は終わったかも知れぬが高度成長前夜、

まだ貧しかった地方都市秋田の、「国体を為しえた」という熱は全国に確実に伝播し、

三年後の1964年東京オリンピックの大成功と
高度成長へと繋がって行った。



3年後の東京オリンピックで銅メダルを獲得する、福島県代表の円谷幸吉選手(ゼッケン41)は

青年5000mでこの大会では2位だった。

東京オリンピックで女子80mハードルでファイナリストになった依田郁子選手(秋田国体では一位)

 

マスゲームの後に撮った6年藤組6人のユニフォーム姿の、

とも子のまぶしそうな笑顔が、一番輝いているって、ボクは今でも思う・・・・。

 

 

おわり

注 この『とも子のブルマー』は、秋田市山王に有る飲食店が、

二拾数年前ダイレクトメールとしてお客様に送付したものに
書き下ろした

ワタクシ高井戸欣求の稚拙な小説?ですが、

この号に関して「とも子のブルマー」が評判を呼び、

ある中学校では、道徳の時間にこの「とも子のブルマー」をコピーし配って使用し

現在の中学生の教材にもなったと聞く。


予備に取っておいたDMも希望する方たちも多く全て
差し上げ、

原稿も無くなってしまっていた今、記憶を頼りに今回再度書いたものです。


一部言い回しに相違点も有るかとは思いますが、

当時の、想い、意図したところはお伝えできたかと思っております。



2014・6・1
 二拾数年後の高井戸欣求


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なお、こちらもご覧下さい。