チケットの裏面には 『館内の撮影はご遠慮ください』 と書いてあったのを

帰りの食事のとき気がついたのだが、入館時、写真撮ってもいいですかと、お訊きしたところ、

「どうぞ、どーぞ、ご遠慮なく、ご自由にお撮りになって結構です」

てな訳で、「ご自由に」 撮った訳なんだけど、ね、

寺山修司さんの天才ぶりに圧倒され、たはぁ~って感じでした。


で、なんかねー、2001年1月発行の 「季刊クラシックカメラ No.10 写真はレンズ決まる」 の

文士のカメラ 「『天井桟敷』のカメラ」寺山修司 に掲載されていた写真の影響をモロ受けているというか

もう、それをナゾッテいるっていわれてもしょうがない。

ここには、そんなインパクトがあった。


でもぅ・・・ もう十年 せめて、もう十年ね、生きていてほしかったよね。











外壁には、句などが書かれた銘板(?)が 彼らしいランダムさで張られていた。



私が生まれて育った処は裏の通りは米町、近隣は寺町という町名で、向かいはお寺が並んでいた。

ウチは、新大工町 25番地だった。 子供の頃から気になっていた。

死んだ 行く町 25番地

寺山修司の上の句を読む度に子供の頃の怖かったことを思い出す。

で、

寺町米町大工町亡者列なす新大工町

などと詠み、

「 Web短歌 風の色の休日 第百壱歌集 」に 臆面も無くUPしたりもしている。

お時間のある方は、ご笑覧ください、あくまでも自己責任でね (=^・ェ・^=))ノ彡☆♪

Web短歌 風の色の休日

ちなみに、写真もいくらかUPしてあります。



同じ壁に俵万智さんの句も有り、なぁ~んかほっとしたり・・・俵さん、怒らないでね。

弘前出身の詩人 福士幸次郎さんの立派な御真影もにも出逢え、またまたほっとした。

福士さんは、佐藤紅緑が同郷の先輩ということで、サトウハチローを初めとするとんでもない どら息子たちの面倒を見たり

紅緑には滅私奉公したのは、娘の佐藤愛子さんの「血脈」をお読みになった方はご承知と思います。


そりゃぁ酷い扱いでしたし、「血脈と私」 という佐藤愛子さんの本にたった一枚載っている福士さんの写真を見て

いろいろ想像していたのですが、

図らずも、ここで立派になられた福士幸次郎さんの「御真影」を見て、ホント安心しました よ (o^-')b グッ!

なので、お祝いに(?)ポスターだけはカラーとし、他はモノクロに加工。


「血脈と私」 に掲載されている、福士幸次郎さんの写真。

この記念館は青森県三沢市にあるのでけど

「撮影のために遠出する」 という習慣というか、そういう撮影スタイルではないワタクシなので

ま、記念館に行くついでに、心が動いたものを撮るつもりではあった。 

が、三沢は基地の町、なので亜米利加の兵隊さんの宿舎というか住まいは

例によって、白いペンキの下見板張りの家が並んでいて、異国情緒があるだろうから

それは撮ってみたいなと思ってはいた。



もうそんなのは無く、普通の今風の日本人が建てる住宅に住んでいた。


しかし、青森県三沢市には目立った産業や大会社があるという訳では無かったが

皆とっても豊かな生活をしているという感じは否めなかった。

兵隊さんも含めて基地に従事する方たちは

「お金の回り」はいいんだなぁ~、基地のある街ってこういうことでもあるんだなぁ と感じた。


こうしたのを見るとき、

沖縄でもこういう関連で豊かに暮らせている人も多いのでは とも思う。

しかし、沖縄に住んでいない人たちの世論が 「基地容認は人でなし」 みたいに動いているので

そういう声を上げれない方も、かなりの数、いらっしゃるのでは・・・・

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