1984年の夏。仕事も止め、付き合っていた仲間にも別れを告げ、全く縁もゆかりも無い
鳥海山がきれいな高原に移り住んだ。写真をやろうとした訳じゃないが学生時代から使っていた
ホンの少し片ボケのクセのあるラッキー90Mは持っていった。
山で、まず最初にしたことは、
身の丈以上あるススキを直径2メートルほど刈り、家族4人での食事の場の確保だった。
それから半年掛りで、妻とふたりで家を立て、遅れてきた春に、凍てついている畑を耕し
短い夏に命の綱のまきを割り、見上げた満天の星。秋、寒む風が吹く頃わずかな収穫を喜び
そして迎えた、長い冬。子供たちは吹き溜まりでスキーを覚え そり遊びを楽しんだ。
山の家の初夏 鳥海山にはまだ残雪が・・・
撮影は息子が通った釜ケ台小学校の担任の三浦哲郎先生。
後日、この時の事を思い出し「Web歌集 風の色の休日」に詠んだりもしました。
ある日帰ってみると、枕木を積んで作った家の感じがいつもとは違っていた。
家の四隅は形よくノッチを組み、ランダムにはみ出させていたのだったが、それが綺麗に無くなっていた。
訊けば、燃料が無くなりチェーンソーで切り落とし薪にしたと言う。
あそこでの寒さは死に直結するものとも言え、その機転を賞賛したのはいうまでも無い。
そんな頃、伸ばし機に何かの拍子に枕木があたり、大破し、使用不能になったが
青春の一時期の戦友としては捨てるに忍びなく、集光コンデンサーは、二人いる
子供にひとつづつ分け与え、大きくゆがんだランプハウスは軽くなったヘッドを
所在無さげに右にかしげたまま部屋の隅におかれた。
この街に戻ることになった際、丁重に葬りった。
春の訪れ 兄 妹 そして父母が建てた家
ああ、こんな写真も有ったなー これは4月頃だろな、雪の量からして。
上の子が幼稚園か小学一年、だから下の子は、2歳半か3歳ぐらいかな
そして、私たち夫婦がふたりで建てた家、
奥の部屋は未完成では有ったが、最初の厳しい冬を体験したあとの春。
嬉しかったねー、春の訪れが。だから腰まで雪に埋まっても撮ったよなー これ。
家の右手に一本はみ出ているのが、一本だけ残った、薪にはならずに済んだ飾りのノッチ。
真中の煙突が、風呂釜のもの。前日焚いた風呂も5cmぐらいの氷が張り、
それを割って捨ててから焚くのが日課だったなー。
その左の煙突は、トイレの臭気抜き。
部落には「衛生班」っていうのがあって、汲み取りを依頼し数軒まとまってから
数ヶ月に一回山の下から業者が来ました。
で、家族4人3か月分と計算し、畳一枚分、深さ1.2mを目安に堀始めたけど
なんせここは、数千年単位で見ると、
鳥海山からの噴火の石が飛んできたと言う歴史があるところで
なかなか掘り進めず、結局は上にあげることの出来ない石も有り、
結果的には底の部分は、畳半畳になってしまった。
ま、それでも十分だっのは、畑に撒いたりしたからだけどね (^_^;)
TVのアンテナは有るが、雨の日は用を成さなかった、
あまりの雨粒の大きさに写らなかったし、写っても
屋根を叩く雨音で、ほとんど聞こえなかったので、
「ズームイン朝」っていう番組に15分くらいも出たのだが
雨のお陰で全く見れなかったのは、ある意味、幸いだったかな。
マスコミが取り上げたがるような「カッコ良さ」なんて
どこにも無かったからね。
その後新聞にも載ったけど、撮影の際「薪割りをしている姿を・・」
何てな注文だったけど
「そんなの面白くも何とも無いよ」と、私は、麦藁帽子をかぶり、長靴はいて、
肥えびゃくしを担いであげましたねー (^o^)丿
(その掲載紙、確かどっかにあるはずなので、見付けたらUPしましょう。)
山に居りゃあ、逆に街のもんが求めるものはクリアに見えるんだよね
まだまだ、面白い話は、それこそ山ほど有るけど、ま、今回はこの辺で・・・・
たった一枚の写真にも、こんなに物語が有るんだねーって他人事みたいだね (^_^;)
2003-10-4
More than 20years befor
大人が取っ手をいじるとドアが開くことが、とっても不思議そうに見つめる長男
大抵の家では、子供が生まれると、この当時でさえビデオを買って撮っていたが
我が家では写真、それもモノクロがメインだったので、この当時アルバムを見る人たちには
不思議がられたが、最近訪れる人にはうらやましがられる。
このころは、キャビネか六つ切りに伸ばしたものを貼っていたので
どんどん増え、「フエルアルバム」もすぐ限界に達し、そこでちょっと厚手の台紙の
スクラップブック利用していたのだが、あまり事務的?なので表紙に貼って
「アルバムです」ってしたもんでした (^o^)丿
『写真』を撮る
お気に入りの写真は四つ切に伸ばし、簡易パネルに貼りいろんなところに飾った。
またそれを背景に写真を撮ったりで・・・ほとんど平行に置いた鏡状態。
その上、このように、キャビネに伸ばしたのは、1ページに一枚 ってな訳で
この子が3歳になるまでにアルバムは7冊にもなりました。
じっとしてなんかいられない
こんな貼り方をするもんだから、ますますアルバムは増える一方だった。
ちょっとの違いも、パチパチ撮り、それをまた全て伸ばすので、もう膨大な量となった。
ホントはこうだったのに・・・
幼稚園の頃のだったと思う、同い年のいとことの写真。
中学の同級生が家に集まった時、これを見て大笑いされ、アルバムから外してしまって
月光のV3で焼いたのをアルバムに貼ってみたのだが・・・
色調が純黒調だし、印画紙の厚さも違う。
この最初の写真が貼られていたところには、
もうすでに家族が別の写真を貼ってしまっていたし
なんか、取り返しがつかないことをしてしまったような気がしてならない。
写真の色だけではなく、アルバムの台紙の色も現在のとは違うし、
青インキで書き込まれた説明も二本線で消され
新たに貼られた写真の説明が書かれていた古いアルバム。
同じようなものを何枚も焼けるが
「一枚」だけが意味を持つ事もあるのもかもしれない。
むかしのねこ
埼玉のニャロメさんはオリンパスペンが初めてのカメラだったようだけど
私は、スタートカメラKがそれだった。550円だった。
ブローニーのフィルムの様に裏紙がついているボルタ判?っていうフィルムだったなー。
当然その当時は、近所のDP屋さんに頼んでいた。写真屋さんならDPEってことになるけど
それはぜいたくなことで、24×24のネガの密着で、「E」なんて 大人の「つう」のすることであった。
それでも、その密着に白い縁をつけてくれたのは嬉しかったなー。
で、カメラを持って近所のガキを10人も集め
(自分もガキだったけど、今、その写真を見ると「少年たち」なんてなもんではない)
ま、とにかく、撮ってあげて、その密着をあげたら近所のおばさんたちから感謝された
この「むかしのねこ」だって、それまで密着で見ていたので引伸ばした時、
初めて自転車が写っていることに気がついたくらいだったからね (^_^;)
人間って、見たいものしか見えないんだね。
それにしても、密着に10人近くも写っていて、
一緒に写っていた人の顔はすべて判別できた。
町内で評判になった密着写真(ほぼ原寸)
あなたは何人写っているは分かりますか?
スパイカメラ
昭和30年代半ばころかなー
♪ぼぉ、ぼ、ぼくらは少年探偵団 ・・・・って言うのが流行っていた。
で、怪しそうなところや人を、スパイカメラで、撮ったりしていた。
が、そもそも「スパイカメラ」そのものが一番怪しいのだが・・・
町内のタカシが「少年」とか「ぼくら」とかの少年月刊誌の裏表紙あたりについている
「これで君も名探偵だっ!!」という通販のうたい文句に踊らされ、
注文した130円の豆カメラは何重にも古新聞に包れ、
出てきたのはどこも動かない、ま、キーホルダーみたいなもんだった。
当然、写真なんか撮れるもんではなかったが「JARO」も無かったので泣き寝入りした。
タカシはスパイカメラを怪しい人に向けて「ぱちっ」とか「かしゃ」とか言っていたが、
写真を撮っているのがばれたことは一度も無い、そりゃ そうだよな。
ただ、一度だけ「うるせ、このガギっ」って言われたことは有ったなー、うん。
で、今回の写真だが、ほんとに写るスタートカメラKだったので、もう緊張の連続だった。
何を作っているのか分からない怪しい工場(こうば)が近所に有ったのだが
それを偶然来た隣のおばさんに、ばれずに撮るというのが、今回の任務だった。
きのう、このおばさんちのがラスを割ったタカシには無理な話だった。
でも、あのなぞの工場は何だったんだろう・・・・
翌日、
「あの時の写真、引き伸ばして、おばさんにちょうだいね」言われ、
隣のおばさんに、しっかりばれていたのを隠していたので
少年探偵二号の私は町内子供会の班長にも選ばれた。
そりゃ、かくしていたのは いけないことかもしれないけど
写真を撮るなんてなことは、『ハレの日』だけのことだったあの当時
撮っているのを知っているのにこっちを向いて「気を付けっ」するでもなく
その上「写真をちょうだいね」は何なの? おれの緊張どうなるの?
やっぱり撮られるのを知っているならこうじゃなくっちゃあ
「写真をちょうだいね」おばさんの子
この子は大人になって出世したに違いない
。人は、こう有りたいもんですね (^_^;)
p/s 少年探偵14号に加えてあげたが、あまり喜ばなかったのは素直でない母親のせいに違いない。
指はピンと伸ばす基本形も保っているのは立派!!
タカシの高度成長期
一千万以上もいる東京で、なんとしたことか、スパイカメラのタカシに遭ってしまった。
こちらに就職して2年もなるが江ノ島へ行った事が無いので行こうと言う。
そりゃあ、私も大学に入って、数ヶ月しか経ってはいなかったが、毎日通る新宿。
あの、キンコロカンコカーンと鳴る電車に乗れさえすれば、江ノ島に着く事位は知っていた。
で、約束の日までに、何度もチケットを買うシュミレーションをして
慣れた風にチケット売り場に行った。
行ったはいいが、タカシのかっこうは、江ノ島に行くにはどーも不似合いだった。
「タカシ、江ノ島さ行くんだや、セッタは無いだろ。」
それには答えず
「これ防水なんだ、通販で買ったんだ」と時計を見せた。
『これで君も、ダイバーっ!!200mだって平気』
とか何とかに 踊らされて買ったんだろうなー、スパイカメラと同じように。
波打ち際 ぎりぎりまで行って、波が来たら逃げる という
7歳以上なら絶対やらないことをしていたタカシは18だった。
で、お決まりのずぶ濡れになったが、時計だけは濡らさなかった。
スパイカメラの一件で学習したんだろうなー、それとも十分な「実務経験」に基づくものなのか
通販のダイバーウオッチは防水で無いってことを知っているようだった。
成長しいた、タカシは・・・
それにしても、その時計に針が有ったか覚えていないし、写ってもいない。
でも 買っちゃうタカシは日本の高度成長期を立派に支えた一人とも言える
一番のなぞは、何でタカシの写真が私のアルバムに有るかなんだが
その後タカシは・・・
いやいや、溺れたとかではなく この荒波の向こうの
アメリカ西海岸のどっかでコックをやっているときいた。
「君も日本料理で、ビバリーヒルズに、家を立てよう(プール付き)!!」
ってことで行ったのか。タカシは少年探偵12号。
聖カテドラル
何枚かの組写真で、なんか賞もらった
ま、三十数年前の話だしね。
当時としては教会をステンレスでって、モダンなことだったらしいねー
その質感はあまり出ていないけど、ま、オレンジのフィルタを使って青空を落としたのが
良かったのかな と。 それにしても組写真、全部残っていないのが不思議と言えばふしぎ。
パレード
今上天皇が皇太子時代、美智子さんとのご成婚の日の馬車パレードのTV中継
全国的にはこの年にTVが大幅に普及したと言われているが
この街では、翌々年だと思うが、小さな大投手、今川を擁した秋田商業が甲子園に出て
一回戦に勝った時、もう爆発的に売れたという。しかし、2回戦で静岡商業に敗れた。
まあ、余談とも言えないが、うちに相当な人数が集まり、パレードの中継を見ていたが
写真を撮るなんて不謹慎だと正座して見ていた近所のおばさんに叱られた。
当然、隣家の「写真ちょうだいおばさん」にも注意されたが、
二三日後に、「あの写真、焼き増ししてちょうだいね」とも言われた。
街へのリハビリ
街へ戻ってからは、「街へのリハビリ」って感じで、海外も含めいろんな所へ連れて行きましたねー
スキーはAPPIが多かったが、タワーが出来たという事で早速4泊5日のスキーツアーを。
「電車に乗ってみたぁ~い」と言えば、もう、即実行でしたねー
山での自然の真っ只中の生活も貴重な体験でしたが、
ま、地方都市とは言え「街の生活」も
知らなきゃ ならないなー、と、いろんな体験もさせましたね。
そして、山の良さ、街の便利さも、一家で感じましたねー
海外旅行も、近所の市役所まで歩いて行き、
そこから空港リムジンバスで行く事により
家の玄関から、海外へ何の隔たりも無くつながっているいる事を、
親子共々感じたもんでした。
そんな中、山に住む前によくキャンプしていた田沢湖キャンプ場へ行った時は
ちょっと、以前とは受ける感じが違いましたねー
炊事場で我々が火を焚くと、人だかり出来、「おお~ぉ」と声があがったりしました。
そりゃあそうでしょ、私らにとってはそれが日常でしたからね (^_^;)
ベテランキャンパーに見える我々の一挙手一投足に注目が集まりましてね。
それが煩わしくて、外食してくると、「はぁー、おしゃれだねー」ってね。
なぁーんか、のんびり出来なくて、外泊しようか、なんて話も出たくらいでしたよ (-_-;)
私ら家族は、何にもしないためにキャンプに行くっていうのが、
山に住む前からのパターンでしたので、
ホント、最近のブームの去ったキャンプ場が 昔懐かしいキャンプが出来ていいですねー
「昔懐かしい」っていうのは、設備の悪いキャンプ場とか、
不便な道具でサバイバル的、とかいう意味ではなく
朝早くからラジオ体操したり、輪になってバレーボールをしたり、
キャンプファイヤー囲んで、
♪ きょう~ぉの日はいつまでも絶えることなくぅ と~ぉもだちで いよお~
などと涙声で歌ったりする事でもなく、
「自然の気」を感じながら静かに過ごすっていう意味なんです。
一度だけですが、シーズンオフに外交官の あの青ナンバーの車で来たカナダ人と
3日ばかり一緒になった事が有るんですが、彼らは見事なキャンプでしたねー
詳細については、いつか書く事があるかもしれませんが、心に残った事をひとつだけ。
私らがどっかに出かけている時に彼らは帰ったのですが、
水場の流し台はぴっかぴかに磨いてあり
調理台の上には、名前も知らないバーボンのビンに、
そこらに咲いている花を一輪飾って有りました。
「むむ、やるなー」って感じでしたね。
写真と関係無い話ばかりで、つまらなかったかもしれませんね。
で、写真関連 NEWS NEWSってことで。。。。。
体調も良くなってきましたので、引き伸ばし機を買いました。
以前使っていたものとほとんど同じ古いのですが
これで、なんとかニャロメさんと、引き伸ばし(紙焼き)の話を
やっと「今」の事として共通な話が出来そうですね (^o^)丿
土曜の朝 工事開始直前
フレクサレットという50年も前の二眼レフが届いた翌日は土曜日だった
例によって、近くの遊歩道へ行ったら
今日、土曜日なのに、道路工事をする人たちのミーティングが始まった。
で、なかなかいい感じの工事関係者を見つけたので
写真を撮らせてもらったのは掲示板に書いた通りだが、
この人がそのおじさんって訳じゃない。
公開するのは、ちょっと・・・と言うので
写真を送る約束し住所を訊いてある。
伸ばし機稼動前に、どんどんノルマが増えていく。
早朝の雨
早朝に強い雨が降ったらしかった。
遊歩道に隣接するガレージを仕切るネットに雨粒がいくつか残っていた。
直線がピシーッと直線に写り、
フレクサレットは歪曲収差は極めて少ないとか、全く無いという話は
本当だったんだ・・・
山の休屋の午後 2003-10-26
2004 夏
山の家の居間から鳥海山を眺めてみた。
この日は雲はかかって全ては見えなかったが、
左に見える、祓川の登山口にある立派な石の方位盤で
真北を見ると我が家の赤い屋根が小さく見えたもんであった。
その頃は居間の前はススキも無く、クルマ置き場で有り、子供の遊び場でも有り
厳しい冬を越す薪を、妻が切り 私が薪を割った。
だから、STEEL社のエンジンチェインソーの扱いは刃の目立ても含めて
妻は私を数段うわまわっていた。
左に見える電柱に有るトランスから電気を引いていたが
今は切り取られた線が所在無さげに風にゆれていた
フレクサレットで。
90Mの墓標
ふたたびモノクロの引き伸ばしをするにあたって、
十数年前廃棄し90Mを埋めた場所を訪れてみた。
そこは「山の家」の西側の窓から見える空き地だった。
その空き地から小高い丘に向かって
草刈機で刈り払って道をつけ、
丘の上を4、5mの円形に刈り払い「お相撲広場」とした。
そこからは、迷路の様にくねくねと刈り払い家に戻れるように一本道をつけ、上り下りも多い
この迷路は子供たちには大好評だった。
が、今回3m近く伸びた「葦」(よし)や、名の知れぬ
草に阻まれてお相撲広場には行けなかった。
90Mを埋めた場所はすぐ分かったが、そのすぐ横には、真っ赤に錆びたリヤカーのような物が
棄てられていた。まるで、90Mの墓標のようだった。
十数年前、曇天の下で土をかぶせた時と同じような厚い雲が太陽を覆ったが、
厚い雲が通り過ぎるのを待って一枚だけ撮った。
こういう写真は、もう二度と撮ることは無いだろなと、なぜか感じた。
フレクサレットで。