金子みすゞと上山雅輔 | |
本州の西端近く、日本海に突き出た漁師町が、童謡詩人・金子みすゞの故郷だ。 |
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朝焼けの海原を船が渡る。 日々の恵みと時に災いをもたらす海。 みすゞは、そんな水面(みなも)の下にも思いをはせていた。 山口県長門市で |
北前船やイワシ漁、山の幸と海の幸の交易などで栄えた。海の恵みに糧を頼り、半面、「板子一枚下は地獄」という危うさもある暮らし。人々はおのずと信心深い風土を育てていった。
出産のため南下してくる鯨を待ち受ける「古式捕鯨」も明治まで活発だった。母鯨の胎内にある子の命も奪ってしまう因果。それを償うように、1692(元禄5)年に漁師らが建立したのが、世界でも珍しい鯨墓(くじらばか)だ。鯨に戒名をつけ、位牌(いはい)をもうけ、過去帳に記録した。子鯨70頭余りが眠る。いまも毎春、法要「鯨法会(くじらほうえ)」が営まれる。 鯨法会は春のくれ、/海に飛魚採れるころ。/沖で鯨の子がひとり、/その鳴る鐘をききながら、/死んだ父さま、母さまを、/こいし、こいしと泣いてます。(「鯨法会」から) |
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「みすゞさんの出発点は、この『鯨墓』といっていいでしょう」。金子みすゞ顕彰会の事務局長・草場睦弘さん(64)は言う。「鯨を思いやる視点は、ここで暮らしを送る人たちの思いを代弁したものだったんです」 みすゞの詩を再発見した童謡詩人・矢崎節夫さん(60)が「中心星」と位置づけるのが、早大1年の1966年、都電の中で読んだ「大漁」だ。それに打たれ、10年以上かけて遺稿にたどりついた話は、よく知られている。
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仙崎は、海に浮かぶ船のよう。 |
みすゞのかつての住まい近くに立つ記念館。「苦しくて、でもあたたかい、あなたにまた会いに来たい」「勝ち負けの世界と言われるだけに、『みんなちがって、みんないい』は、心が軽くなりました」。感想ノートなどにそんな言葉が並ぶ。「会う」と表現する人の多さに驚く。
俳優田中美里さん(30)も「会った」一人だ。映画「みすゞ」(01年公開)の話が来たころ、パニック障害で役者人生の瀬戸際にあった。仕事は増えても実力が伴っていないと悩み、ストレスを抱えていた。そんな時、役作りに詩や資料を読み、衝撃を受けた。 仙崎でのロケは不思議な経験だった。彼女が見守るのを感じる。物事を思いがけない視点で見るみすゞが自分の中に息づき始めた。カメラの枠を気にせず、撮影ということさえ忘れ自由に演じた。自死の場面も穏やかな気持ちだった。「感性が鋭すぎて息苦しく、自由を求める人生だったのでは。それを追体験する思いでした」 これを境に生活も仕事も「百八十度変わり、こだわらなくなりました」。時おり詩や絵をものする。「つらさがあってこそ創作ができるんですね」 みすゞの人生もそうだっただろう。 |
70年をこえて届く母の思い 金子みすゞは20歳のころ、山口県下関市に引っ越した。母親と叔母の夫が、ともに伴侶に先立たれた後、再婚したことなどがきっかけだった。 手書きの遺稿集にある512編の大半は、その下関で書かれた。叔母夫婦が経営していた書店で店番をするかたわら、雑誌へ投稿を続ける日々。作品は次々に採用され、全国の投稿仲間たちからもあこがれられた。 明治学院大名誉教授の平林武雄さん(97)は当時、みすゞの投稿を雑誌で読み、「ノーブルな作風からして、ミッションスクールの女学生さんだろう」と思い込んでいた。自由詩や自由画などを投稿できる文芸雑誌が相次いで創刊されたおり。若者は文部省唱歌のような歌にあきたらず、自由な童謡にひかれ、投稿を競った。 「明治と昭和に挟まれ、自由な空気があった大正リベラリズムの時代。若者にとっては、そうした活動が自己表現で、誌上で手紙をやりとりするのも楽しかった」と平林さんは振り返る。
多感な時代、みすゞが刺激を与えあう相手になったのが、書店の後継ぎとして再会した弟の上山正祐(上山雅輔)だ。1歳で叔母の養子になっていたため、表向きはいとこ同士。文学青年で、仕事の合間に作曲や作品投稿にいそしんだ。ふたりは朝な夕な、詩や音楽について意見を交わし、互いの創作を励ましあったようだ。
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金子みすゞ (本名テル)の筆名は「信濃」にかかる枕詞(まくらことば)「みすずかる」から。弟の上山雅輔(かみやま・がすけ)(本名上山正祐(うえやま・まさすけ))とは文学や音楽論を交わすなど刺激を与えあった。22歳のとき、母の再婚先(雅輔の養子先)の経営する書店の店員と結婚し、娘ふさえを出産。しかし、夫から詩作や文通を禁じられ、花柳病をうつされたことなどから関係が悪化し、睡眠薬で自死した。雅輔は古川緑波と出会い、大衆演劇を経て、劇作家、放送作家として活躍、劇団若草を創設した。 みすゞが512編の手書き詩集を雅輔と西條八十(やそ)に贈っていたことを矢崎節夫さんが突き止め、84年に全集が発刊。「よみがえった童謡詩人」として大きな反響を呼んだ。 |
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金子 みすゞ(かねこ みすず、1903年(明治36年)4月11日
- 1930年(昭和5年)3月10日)は、 生涯 大正末期から昭和初期にかけて、26歳の若さでこの世を去るまでに512編もの詩を綴ったとされる。1923年(大正12年)9月に『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』の4誌に一斉に詩が掲載され、西條八十から「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛された。 1926年(昭和元年)、義父の経営する書店の番頭・宮本啓喜と結婚し、娘を1人もうける。しかし夫は中央誌への詩の投稿を禁じたばかりでなく女遊びに明け暮れ、更にはみすゞに淋病を感染させるなどした事から1930年(昭和5年)2月に正式な離婚が決まったが(手続き上は未完)、離婚合意への必須条件として娘の親権を強硬に要求する夫への抵抗心から同年3月10日、みすゞは服毒し自死。
仙崎は古くから捕鯨で成り立っていた漁師の村であり、鯨に対する畏敬の念から鯨墓が存在する。金子みすゞは鯨の供養ために、鯨法会をする地域の慣わしに感銘し『鯨墓』を書いた。この『鯨墓』が慈しみを主題とする金子みすゞの詩集の原点とも言われ、後の『大漁』などに繋がっている。
一方、長周新聞主幹であった福田正義は矢崎をはるかに遡る1937年、雑誌『話の関門』の中で金子みすゞの生涯と作品とを紹介しているという。同新聞サイトでは、矢崎の態度を商業的な狙いと軽薄な理解によって金子みすゞ作品を囲い込むものだと批判している(『話の関門』を探し出そう参照。自殺当時のマスコミの扱いや遺族についても詳しい)。 ただ、少なくとも現在における金子みすゞの評価のきっかけを築いたのは矢崎の業績であることに疑いの余地は少なく、福田の主張と批判には少なからず言いがかり的・中傷的な側面があると考えられる(長周新聞は普段から反商業主義・反資本主義的色合いの強い紙面作りをしており、これらの主張や批判もその一つであるとの見方もできる)。しかしその一方で、みすゞの作品に関する著作権の問題(後述)については福田や長周新聞関係者以外にも矢崎に対して疑念を持つものも存在する。
メディアへの露出としては、ラジオ大阪「1314 V-STATION」の携帯サイト「声優V-STATION」3分ラジオで2003年6月19日~2004年1月5日に金子みすゞの詩を朗読するプログラム「小森まなみのおやすみポエム」が公開され、後にCD化された。TBSラジオのミニ番組「童謡詩人・金子みすゞ」でも詩作の朗読が放送されていた。 また、みすゞの数奇な人生は後に映画・テレビドラマ・舞台などで演じられており、劇中で詩作が紹介されることも少なくない。
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<金子みすゞと上山雅輔>
*1)古川緑波1903~1961 : 喜劇俳優。徳川夢声(*2)のナヤマシ会に参加、声帯模写で人気を得る。 |