(備忘録 INDEX に戻る)
6月1日は写真の日
この日が定められのは昭和26年です。
その根拠としては天保12年(1841)のこの日、薩摩藩の御用商人・上野俊之丞が
フランスで発明されたばかりのカメラを輸入して島津斉彬を撮影したとため、
とされたのですが(^^)その後の研究でこれは実際にはもう少し後だったとされています。
現在のところ日本で最初に写真に写ったのは嘉永4年(1851)嵐にあってアメリカの船に助けられ
船上で写真を撮ってもらった栄力丸の3人の乗組員、こめぞう・しんぱち・いわぞうの三人とされ、
その内のしんぱちは後に「サム・パッチ」の名前でペリーの艦隊の水夫になっています。
この写真は現在川崎市民ミュージアムと横浜美術館にあります。
カメラの発明者はフランス人の画家ダゲール(Louis Jacque Mande Daguerre,1787-1851)と
ニエプス(Nicephore Niepce,1765-1833)です。
ダゲールはある日丘の上で夕暮れの絵を描いていて、
ふとこの夕暮れの情景をそのままの姿で残すことができないものだろうかと考えました。
彼はニエプスとともに色々な研究をした結果、まず1822年ジオラマを発明、1826年にヘリオグラフィーを発明、
更に1839年銀板写真を発明しました。この銀板写真をもって一般にはカメラの発明とし、
発明者の名前をとってダゲレオタイプとも呼ばれます。
現在パリにこの初期の銀板写真が残されており、一番古いものはまだこの技術が公表される前の1837年のものです。
Boulevard_du_Temple
同じ頃イギリスのタルボット(William Fox Tarbot,1800-1877)は「フォトジェニックドローイング」という同様の写真術を開発していました。
結果的にはここから「フォトグラフ」の名称が出ています。タルボットはメソポタミアの楔型文字の解読者としても有名です。
1880年にアメリカのジョージ・イーストマン(1854-1932)は1880年画期的な乾板フィルムを発明しました。
彼はこの年「コダック」を設立し、更に1885年このフィルムをロール状にしてホルダの中に巻いて収納する方式を考案、
この機構を採用した新型カメラを1888年に発売して 『あなたはシャッターを押すだけ、後は当社にお任せください』
というキャッチフレーズで大々的に売り出しました。
このロールフィルムに注目した発明王エジソンはこれに連続した写真を写して続けて見せることによって動画を作ることができることに気が付き、
1891年映写機(キネトスコープ)を発明しました。このエジソンの映写機は箱の中をのぞく方式でしたが
これをフランスのリュミエール兄弟(Louis Lumiere,1864-1948 August Lumiere,1862-1954)が改良、
スクリーンに投影する方式を考えて1895年、映画(シネマトグラフ)を発明しました。
日本で最初に国産カメラを作ったのは小西本店(後の小西六、現コニカ)です。
1903年のことで「チェリー手提暗函(てさげあんばこ)」という名前でした。
そして日露戦争が終わると戦勝の景気にのってこのカメラがどんどん売れ出します。
しかし高級品を求める人たちはドイツのライカを買っていました。
ライカは1819年まだダゲールの銀板写真ができる前から活動をしていた老舗です。
(何を作ってたんでしょう ^^; どなたか知っている方、教えて^^)
そのライカは1925年それまでのカメラをもっと小さくし、35mm大のフィルムを採用した小型カメラを発明しました。
これによってカメラは機動性がよくなります。その頃同じドイツで蛇腹型のスプリングカメラも作られました。
(メーカーが分からない。誰か知っている人教えて^^)このカメラはライカの半分以下の値段で買えたため庶民に人気がありました。
国内では1928年には田嶋一雄の「日独写真機商店」(現ミノルタ)が創業、翌年第1号機の「ニフカレッテ」を発売しています。
1934年には「朝日カメラ」に次のような大胆な公告が載りました。
『潜水艦ハ伊号。飛行機ハ九二式。カメラハKWANON。皆世界一』
公告を出したのは精機光学研究所。カメラを開発したのは吉田五郎(l900-l993)。
吉田は自分が信仰する観音菩薩の名前をこのカメラにつけました。
カメラの量産には日本工学(現ニコン)も協力しましたが、
この「カンノン」は実際に販売される段階になりますと吉田の義弟の内田三郎の意見を入れ、
言葉を少しなまらせて「キャノン」に変更されました。観音菩薩が聖典に変身した訳です。
1935年にはコダックがまた新しい技術を開発します。カラーフィルムでした。
これは色の三原色に対応した3つの層を持つフィルムで
更に三原色に対応した印画紙にプリントするとカラーの写真が撮れるという画期的なものです。
これでやっと写真はダゲールが思い描いていた「景色をそのまま残せる」ものになります。
そして1937年、今度はエドゥイン・ランドがまたまた画期的な技術「ポラロイド・カメラ」を発明しました。
彼は休みの日に家族の写真をとってやっていた時、娘から「今とった写真をすぐ見たい」とせがまれ、
それがきっかけでインスタントカメラを考案したのだそうです。このカメラの実際の発売は1948年にずれこんでいます。
戦争が終わって日本のカメラメーカーはどこも活気に満ちていました。
人々は貧しい中にも開放感からカメラを買いました。また輸出用としてもカメラはずいぶん生産されました。
そんな中に当時としては先進的な一眼レフ機構を採用したカメラを大々的に売り出した会社がありました。
萩本商会です。しかし当時まだ人々は一眼レフのカメラの必要性を認識していませんでした。
ごく普通の二眼のカメラだけが売れ、一眼レフは売れず萩本商会は倒産。社長一家は家族離散してしまいます。
その一家の息子が後にコメディアンとなる萩本欽一です。一眼レフが売れ出したのは昭和30年代に入ってからでした。
そしてカメラの技術は更に進歩していきます。1970年代に入って自動露出カメラが出始めます。
それまではみんな露出と絞りを手作業で調整していましたがこれにより飛躍的にカメラは扱いやすくなり、全くの素人でも写せるものになります。
さらに1982年にはコンパクトカメラが登場。まさに「シャッターを押すだけ」の世界が到来しました。
カメラというものに対する価値をガラリと変えたのは1986年に登場した使い捨てカメラでした。
フジフィルムの《レンズ付きフィルム》「写ルンです」は、その軽快なネーミングも受けて急速に普及します。
むろん使い捨てという通称とは裏腹に実際にはこのカメラの部品は全てリサイクルされ
また新しいカメラに使用される仕組みになっていましたので決して1960-1970年代のような使い捨て文化に属する商品ではありませんでした。
そしてまた近年カメラは大きく変わろうとしています。
1995年カシオが発売した画期的に安価なデジタルカメラQV-10 は日本列島を激震させます。
次々と色々なメーカーが同種のカメラを発売、改良に改良が重ねられ、
現在では通常のコンパクトカメラと比べても全く遜色のない写真が撮れるものも出て来ています。
当初は一度に撮影できる枚数の問題もありましたがこれもスマートメディアやメモリースティックなどの登場で解決されました。
また一方では1996年従来通りの銀式の写真とデジタル技術を統合したAPSが登場、
メーカーは「アナログ写真とデジダル写真の中間を行くもの」と歌って売り込みましたが、その通り中間的存在にすぎないかも知れません。